仏像オタクニストSALLiAの「仏のトリセツ」vol.14 「私たちは何と戦っている?」
緊急事態宣言が4月7日に発令され、早1ヶ月が経ち、更なる延長が最近発表されました。stay homeという言葉が広がると同時に、それに伴う人々の声も聞こえてくるようになりました。
「コロナに負けるな」「我慢しよう」「コロナが終息したら何がしたい?」「自粛警察」etc…
私はこの言葉たちを見るたびに、いつも小骨が喉に引っかかったような違和感を感じているのです。
今私たちは、一体何と戦っている「つもり」なのか?私自身が感じた違和感を元に、今回のコラムを書いてみたいと思います。
自分の身を守っているに過ぎない
コロナに負けるな。コロナが憎い。戦おう、日本。
そしてその裏では「コロナ疲れ」「いつまで続くのか」「我慢」「自粛警察」とこのような言葉が今、日本には溢れています。しかしその一方で、医療従事者や配送業の方への差別は無くならないと言います。
本当に「コロナウィルス」と戦っているのは、一体誰なのでしょうか?
家にいることで、感染を広めない。もちろんそれは、自分や自分の大切な人、そしてその先にいる多くの人を守ることや医療従事者の方々への負担を減らすことに繋がります。もちろんとても大切なことです。
でもそれは「守る」ことであり、「戦っている」わけではありません。言い方は悪いかもしれませんが、私たちは自分と身の回りの人を「守っているだけ」に過ぎないのです。
本当に戦っているのは、医療従事者や私たちの生活を繋ぐために働いてくれている方々だと私は認識しています。
命がけで未知のウィルスと戦っている人たちはきっと「我慢」とかいう言葉など浮かばないほど、全力で日々戦ってくれているのだろうと私は思うのです。
ただ自分の身を守っている私たちだからこそ「我慢」という言葉が出てくる。いつか、終わってくれるはずと思うから「我慢」になってしまう。
いつか必ず終わってくれることを「希望」にしてしまうのは、あまりにも危険だと私は今感じています。
「希望」は思い通りにしたいことが叶う可能性ではないからです。
思い通りにしたいことを叶える可能性は、悪く言い換えれば「煩悩(執着)」になります。
本当の「敵」はウィルスじゃない
煩悩とは、欲望などと誤解されることも多いですが、「心身を悩まし苦しませる、煩わせ、汚す精神作用」のことです。あくまで自分の足を引っ張る「心の働き」のことを指します。
そしてあらゆる煩悩が消滅し、苦しみを離れた安らぎの境地を「涅槃」と言いますが、元のサンスクリット語の nirvana は、「炎を吹き消す」ことを意味します。この場合「炎」とは、「煩悩」のことです。つまり、煩悩の炎を吹き消した状態が涅槃という穏やかな「安心」の境地であるということです。
いつか終わると思わないと頑張れない、という気持ちもよく分かります。だけどもし、終わらなかったら…?その希望は潰えてしまいます。だからこそ、それを「希望」として設定するのはあまりにリスクが高い。
本当に設定すべき「希望」はどこで、本当に闘うべき「敵」は何なのか?
今一度、ここで整理しなければ大変なことになってしまうと私は思いました。
「戦う」という姿勢は、一見「平和を追求する姿」にも感じますが、実際はそうでない場合が非常に多いと思います。
何故なら、戦うという姿勢は、裏返すと「許さない」という憎しみの感情がベースになっていることが多いからです。
緊急事態宣言が発令されてから生まれた「自粛警察」という存在がまさにこれに該当すると思います。一見、正しいことをしている、不当な人間やお店を弾劾している図に見えるのですが、ただ単に「自分だけ我慢を強いられていることが理不尽だ」という自分のストレスの矛先を向けているだけのような気がしてなりません。
自分で勝手に敵を作って、心で戦争をし、自ら「平和から遠ざかっている」状態こそが「自粛警察」に該当するのではないでしょうか?
自分の心がそれを「敵」と設定することで相手に刃を向けることができる。実際はその大義名分に過ぎず、自粛警察が「正義」と思っているものの正体は、「煩悩(怒り)」ではないでしょうか?
そして私たちが戦っているのは、本当は「未知のウィルス」ではありません。コロナはあくまで私たちの心の中にある不安や恐れ、自分の弱い部分を表層化させたきっかけに過ぎないと思います。
本来私たちは、生きることも「当たり前」でなく、死ぬことも「あり得ないこと」ではありません。その本質的なところから遠ざかっても生きてこれていた、平和ボケできていた方が「おかしなこと」だったのです。
戻るべきところに戻っていっただけに過ぎない。と私は正直感じています。
「After」よりも「With」
だからこそ、「Afterコロナ」を考えるよりも「Withコロナ」の方向性に舵を切っていったほうが精神的には楽になっていく気がしています。
前述しましたように、Afterコロナが必ずくるとは限らない。きても、いつになるか分からない。だとしたらずっと、不安で苦しいままです。心の平和から遠かった状態が続くと言えます。
一人一人が選択したものや、その生き方が構造化されて生まれたものが「社会」と言えます。だからこそ、平和な社会が「勝手」に生まれることは決してありません。自分は関係ないし、頑張らないけど社会は平和であってほしい、自分に都合のよい社会であってほしいというのは、消極的な姿勢と言えます。
「積極的平和」という言葉がありますが、それは社会的矛盾や国家間の緊張に対処する場合でも、その関係者が互いに敬意を持って漸進的・段階的に問題を解決しようとする努力の過程を指します。
それで考えた場合、「我慢」は「消極的平和」に当たると思います。何のための自粛なのか、その意義が見出せていない場合は「我慢」になるのです。我慢はいつか限界が必ずやってきます。
だからこそ今、必要なのは「我慢」ではなく「忍辱」の姿勢であると私は思います。
大乗仏教の菩薩行である「六波羅蜜」の一つである「忍辱」。これはいかなる侮辱や迫害にも怒りを起こさないで心を動かさないことという意味になりますが、ここで重要なのが「心を動かさない」ということです。
これを私は「動かさない」というよりも、「動かす必要がない」という風に解釈しています。さらに言い換えると、「耐えている自覚がなく、耐えている状態」です。
人が本当に集中している時は、集中している自覚がありません。それと同じで、耐えている自覚がないけれど耐えているのが「忍辱」といえるのではないでしょうか?
耐えていることに自覚すると人は苦しくなります。そしてその自覚している状態が「我慢」に当たると思います。
我慢するのもしんどいし、何かを許さないと思って生きるのもしんどいです。今、そんな余裕がありますか?
私にとっての希望は、コロナが起こる以前からずっと「生きることの喜びを感じられること」そのものを「希望」として設定しています。
家にいる時間も増えましたし、今までできていたこともできなくなりましたが、基本的には何も変わってないと感じます。コロナによって「我慢」していると思った瞬間は、一瞬たりともありません。
金銭的にも、生活的にも、将来的にも、不安に思おうと思えばいくらでも思えるのですが、生きてさえいければ何だっていい、「我慢」も「戦う」という概念も自分の中からはそれなりに消えました。
とはいえ、生きてる限り揺らぎ続けるのが人間です。何のために耐えるかではなく、どういう心があれば勝手に耐える状態になるのか。それを今まで以上にしっかりと、あくまで「自分自身にだけ」問い続けていきたいと思います。
歌手、音楽家(作詞・作曲・編曲家・音楽プロデューサー)、仏像オタクニスト 。
「歌って作って踊る」というスタイルで話題を呼び、2016年11月USEN1位を獲得。さらに4週連続トップ10入りを果たした。さらに音楽家(作詞・作曲・編曲家)として楽曲提供を行ったり、県域ラジオ局のラジオパーソナリティ、全国のフリースクールでのボランティア活動等、その活動は多岐に渡る。
幼少期よりいじめ、不登校、家庭内の不和など、様々な生きる苦しみを感じながら成長し、20歳で「仏像」と出会う。そこからずっと感じていた「どんなに過酷な状況でも穏やかに、幸せに生きる方法」を本格的に模索し始める。
そしてUSEN1位獲得の翌年、足の事故に遭うという人生最大の危機が訪れる。しかしその人生最大の苦しみがきっかけとなり、仏像だけでなく本格的に「仏教」の勉強をし、「自分で自分を救っていく方法」を発信する「仏像オタクニスト」としての活動を始めることを決意。2018年4月、本名の畑田紗李から「SALLiA」に改名。
2018年12月3日、「生きるのが苦しいなら~仏像と 生きた3285日~」を出版。紀伊国屋週間総合ランキング3位やダ・ヴィンチニュース1位など、話題を呼んでいる。