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ふとした疑問。

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有り難し有り難し 10

前回はお答えいただきありがとうございます。
質問を送った後に様々質問を拝見し般若心経に興味を持ち思い立ったが吉日と書店へダッシュ。
書店には何冊も般若心経関係の書籍が有りましたが直感で一冊購入し自宅で読んで見ました。
結果・・・・・・脳味噌が熱暴走しました。
現代語訳もついているのでグイグイ引き込まれていきました。
わからない事だらけで床を頭を抱えコロコロとしてしまいましたが大事な事がわかりました。
《私は何一つ知らない》と言う事です。
何度も床をコロコロとしながら学んでいこうと思います。
少し逸れてしまいましたが購入した書籍には幾つか逸話が載っておりその中に要約された舎利子の逸話がありました。
舎利子が目連と共に入滅する逸話です。
阿難尊師に釈迦が無常の理を説く所まで読んでふと、現代日本に生きる俗物な私は思いました。
何故、釈迦は舎利子を止めなかったのかと?
目連に続き舎利子まで入滅してしまうのは教団としては痛手では無いのかと?
俗っぽい事で申し訳ありません。
宜しければお考えを伺いたくこの様な不躾な質問ですがお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

何故東日本、熊本、北海道、鳥取震災を止められなかったのですか

人の作ったお話に惑わされていませんか。
「何故」という問いには理由を必要とします。
何故?
ではなく、そうだったのです。
この世の中には霊能力者、占い師と呼ばれる人間が何十万人といる。
彼らがもしその力を本当に持っているならば、「なぜ」この震災を止められなかったのか。
仏教はそんな超能力めいたものではありません。
なぜ?という問いで解決しようとしないことです。
何故という問いとは異なる解決方法があるという事を知っておくと良いでしょう。
何故の間にその通りにある。かくある。そうある。
すべては元々がその通りで、それ以上でもそれ以下でもないという名のパーフェクトなのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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