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悲しみが癒える日が来る気がしません。

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現在1歳3ヶ月の子供がいます。
出産1ヶ月前に夫の癌の再発がわかり、子供が8ヶ月の時に旅立ちました。夫とは5年間、交際をして心から「結婚をしたい」と思い結婚しました。交際中に癌が分かり、万が一の再発も覚悟の上で結婚しました。それくらい、彼を尊敬し大切に思っていました。
しかし、実際には全く覚悟はできておらず、旅立って9ヶ月経った今も夜になると毎日涙が出ます。周りには「闘病中もあんなに頑張って支えて偉かった。この先、必ず良い事があるよ。見ててくれているよ。」と言ってくれます。とてもありがたいですが、「良い事って何だろう。とにかく夫に戻ってきてもらいたい」と思ってしまいます。
また、優しい両親にも恵まれ夫の死後は実家で同居をさせてもらっています。
しかし、私も含め家族全員フルタイムで働いており忙しさや実母だからこその育児や家事への甘えもあり、イライラが募り関係が悪くなりつつあります。
私は就職してから約5年以上は別で暮らしていたので程よい距離感が良かったのかもしれません。
これ以上関係悪化はしたくないので、実家を出る事も考えています。

子供が唯一の生きがいです。
子供の前では笑顔でいたいです。子供が結婚して自立したらすぐに夫に会いたいです。あと20数年、私には癒される日は来るのでしょうか?

医療現場で働いていましたが、もうやりたくないとさえ思ってしまう自分がいます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

愛情が元となっている悲しみ

DSYさま
はじめまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。

最愛のご主人を9ヶ月前に亡くされ、今も毎晩涙を流していらっしゃるとのこと。その苦しいお気持ちを想うと、私も胸が苦しくなってくるようです。深い深い悲しみの中にいらっしゃるのですね。

「悲しみが癒える日」と書かれていましたが、尊敬し大切なご主人だったのです。その悲しみが癒えることは無いと私は思います。なぜならその悲しみは、彼への愛情が元となっているからです。DSYさんの悲しみは、DSYさんにとって大切なものでもあるのではないでしょうか。

悲しみが癒えることは難しいとしても、なんとかその悲しみを抱えながら生きていって欲しいと思います。お子さんはまだ小さいですが、彼(彼女?)と共に生きていってください。周りの方が仰る通り、ご主人は仏さまとなって一所懸命にあなたを見守って下さっています。

また、お子さんが結婚・自立の後にすぐご主人に会いたいと書かれていました。でも私は、20年後にDSYさんが「色々あったけど、今は幸せ」と思えるような人生を歩まれるようにと、心より念じています。

今はご実家で暮らしているものの、思い通りにならないこともあり、距離をとることも考えていらっしゃるとのこと。家族とは言っても全て分かり合えるわけではありませんね。特に一度ご実家を出ているのでなおさらだと思います。

これについてはお子さんのこと、お仕事のことなど考慮に入れながら、お考えになって下さい。DSYさんが少しでも心やすらかにお過ごしになれるような、良い選択が出来るよう願っています

★お礼を拝読して
私たちの書いたことが、ほんの少しでもお力になれれば、これに勝る喜びはありません。
泣いている時も、悲しい時も、苦しい時も……誇りに思えるご主人はどんな時も、あなたを見守っています。

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有り難し
おきもち

横浜市神奈川区で、新しく小さなお寺を営んでいます。 仏教の教え・浄土真宗の教えが好きで、それを人に伝えたいと思い、自宅で法話会を始めてご縁の輪が広がりました。
相談の日程や時間はご相談ください。

自分を優先させない願いを持つのです

最愛のご主人に先立たれ、さぞかしお苦しかったことと思います。
仏教では愛別離苦と申しまして最愛の人との別れの苦しみを言います。
あなたが本当にその苦しみから解放されるには、今日一日、何の願いも求めも持たない生活をすることです。
こうであってほしい。
どうか、思い通りになってほしい。
両親にこうあってほしい。
子供にこうあってほしい。
今後はこうであってほしい。
次はきっとこういう幸せがきてほしい。
そういう願いや求めというものを私たち人間はしらずの内に作り出してしまっているものなのです。
本当はこの世は苦しみではありません。
「私(私目線)」という条件付けをすることで人は、この世の出来事が「わたしにとって苦⇔楽 良いこと⇔悪いこと」という隔て、格差が生じます。出来事としては本源的に同じなのですが、自分の頭の中における「捉え」が変わってくるという事なのです。
まずは、今まで本当に苦しかったでありましょうから、今日で中休めをして頂きたいと思います。
浦上さんも仰っておられますように、愛情ゆえに苦しみが生まれるという事があります。
ですが、どんなに愛する人との別れであっても、悲しいのですが安らかな別れというものがあります。
それは、その死をその死として尊厳を認め、それ以上の成果を期待しない死です。
もし私がご主人の立場であったら私は苦しいと思います。
自分の病気をどうすることもできなかった。
いまはもう、この世にいない。
それなのに今でも奧様であるあなたから責め続けられるように、あなたがいつまでも苦しんでいる、悲しんでいる。亡きご主人としても「どうすることもできない」から、より一層苦しいと思います。
ここは、あえて亡きご主人のお立場に立って差し上げて頂けないでしょうか。
本当はご主人だってお子さんの成長をあなたと共に見守りたかったのです。
ですが、それがかなわなかった。
そして、あなたを苦しませ、悲しませ続けている。
ご主人に変わって申し上げるなら「では、私はどうすればいいのですか。」
ご主人の死は今から何も変えられないはずです。
だからこそ、ご自分を優先させない願いを持つのです。
ご主人の願いを聴いてあげるのです。
「俺がもし生きていたらあなたにこう生きて欲しい」という声を聴いて、願いをかなえてあげてください。
ご主人が、今のあなたにもっと望んでいることがあるはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お返事ありがとうございます。何度も何度も読み返し、声をあげて泣いてしまいました。彼を心から愛していたからこそのら苦しみなんですね。そんなに大切に思える人に出会えたことを誇りに思いたいです。
丹下様の言う通り、彼は生前から「私の幸せが俺の幸せなんだよ。」と常に言ってくれていました。今の私を見てる彼は辛いと思います。
私も彼の幸せが私の幸せだと思っています。彼の声に耳を傾けたいと思います。

この先もまだまだ辛い日が続きますが、落ち込んだ時はこの回答を読んで頑張っていきたいと思います。

本当にご親切にお返事してくださり、ありがとうございました。

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