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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

現在のあなたのままでよいのです。

人間は何もしていない時間を作ることが大事です。
たとえば1人で家にいる。
テレビがついているだけで脳味噌が何かをするようになる。
情報を集めて、拾い上げるので、木きたくなくても入ってくる。拾い上げる。別の事が想起されるようになる。
坐禅という修行がありますが、これは坐禅をすることではありません。
人間の脳内活動を一切合切ホットケさま、ホッタラケにするのです。
すると、自分責めや、自分いじめや、過去のイヤな体験、トラウマ、フラッシュバックが生じても、それにすら手を付けなくなれる。ほっとけ様になれるのです。
すると思いが「ぽん」と出ただけになりますから、どんなイヤな思いも自然に消えていくのです。
今、あえてテレビもスマホも置いて、ほんっとーに何もしないでいる練習をしてみましょう。
どんな思いが出てきても放っておくのです。
たとえて言うなら、モグラたたきのモグラを叩くのではなく、叩かないもぐらたたきです。
そうして、何もしない心になる。
何もなされない心になる。
何が思われても放っておけるような心になる。
すると、私たち人間は、過去にどんなにつらいことがあっても、たった今はもうそれを離れて、たった今を生きているだけなのだという事を悟るのです。
私たちの中に働いている全自動身心浄化機能を発見することが出来るのです。
あとは、それにお任せすると、どんな事があっても、常に浄化されていくので、こころに残り物がなく生活できるようになります。
道元禅師はここを身心脱落、脱落身心と説かれました。
我々人間誰もが、もともと救われている、どんな想念が沸いても全自動浄化機能が働いて流し去ってくれていることを自覚されたのです。
どうか、あなたの中の全自動浄化機能を感じ取れるまで、なにもしない、余計な思いを想わない生活をしてみてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元 様
ありがとうございます。

あの・・・・ご質問を書いたあと、早々に削除したのですが…。
お読みいただいた…ということでしょうか。
ご心配下さっているお坊様が…もしかしたらと感じたもので。
変なことを書きました。申し訳ありません。


何もできない時間が長過ぎました。
そのときは、脳が働くことをやめ、人間である(生きる)こともやめていました。真っ暗闇でした。
それとはまた、違った感じですね。


>フラッシュバックが生じても、それにすら手を付けなくなれる。

フラッシュバックは考えるより先に、身体が反応してしまいます。それさえも無くすことができるならば、PTSDを抱える人は皆、座禅を習得すれば治りますよね。

申し訳ありません。
あんなくだらないご質問にお時間を割いていただいたのに、何故か反抗的ですね。

あのご質問はおそらく、ただ意見を聞きたかったのではなく、聖職者と言われるお坊様方に、私の怒りをぶつけたかっただけなのかも知れません。
私の病気による過剰反応だと思い、削減しました。

それだけ辛い思いをしたのだと、考えていただけるとありがたいです。


たった今を生きているだけなのだ、ということを悟れたなら、フラッシュバックなど起こらなくなる…と希望を持てば良いのですね。
『全自動身心浄化機能』を発見し、お任せするために、無の状態に自身を置けば良いのですね。

『無我の境地』には、一度行ったことがあります。スポーツで練習試合をやっているときでした。その1球に、皆が数秒固まりました。
何もせず、何も考えず、あの場所へ行ければ良いのですね。

私の中の全員が協力してくれれば良いのですが、ヤンチャ者や、反抗的な者もいるもので(苦笑)、なかなか難しいかも知れません。


私の中の全自動浄化機能が正常に働いてくれていたら、こんな病気になんてならなかっただろうに・・・・と言うのが正直なところです。

何故か今、とてもネガティブで反抗的だと感じます。
本当に申し訳ありません。

それでは何も前に進めないので、こういう思いさえも感じられぬ様に、何もせず、何も考えない時間を作れたらと思います。

ありがとうございました。

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