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規定

回答数回答 1
有り難し有り難し 50

自分の決めたルールの中で質問してきました。最近めちゃくちゃだなと思います。本当に申し訳ないです。もうすぐ終わりが近づいているのであと少しだけお願いします。頑張れないけど頑張りたいし、死にたいけど生きたいです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

変身・返信をお待ちしております。

終らせるのは先ほどもお電話でお伝えいたしましたが、そういう「悪く」考えたり「暗く」考えること❝だけ❞をこそ、終わりにすればよいのです。
不完全燃焼をする電気ストーブが家にあれば、それだけを一度電源オフにすればいいだけです。
わざわざブレーカーや発電所そのものを停止する必要はありません。
失われるのは自分のルール・規定だけです。ご安心を。
「あなた自身」と「あなたの規定」とは別存在、別物だと思ってください。
作家の作品と作家そのものとが違うように。
今が生きながらに生まれ変われる最大のチャンスです。
「ま。」さんを苦しませ続けてきた、最大のがん細胞がみえてきたはずです。
それをこそ、勇気を出して切り離すのです。
自分の体の一部であるかのような気がしますが、感謝の気持ちをもって「いままでありがとう」と、そのご自身の作り上げていた世界観だけ手放せばいいのです。
私も死のうと思っていた時期がありましたが「死にたい」とか「死のう」とするのも、
「わたし」「わたくし」「マイルール」に縛られた自分の小さな枠の中の生き方でしかないのです。
作家の中の駄作のようなものです。
あなたがさらに花を咲かせるためには、思い切って新作を手掛けなければいけません。
これだけ沢山のお坊さんが後押ししてくれているのですから、選択するべき道を誤らない様にいたしましょう。
今までも、沢山の事を❝完了❞という意味で終わらせてきました。
その終わったことは蛇の抜け殻のようなものです。
蛇は抜け殻にはもう用はないはずです。
死にたいという事はより良く生きたいという事。
あなたを死にたいと思わせる考え方や暗い思いはどんどん脱ぎ捨てて行ってください。
今一度、新たにhasunohaに再登録なさってください。
心機一転、気持ちを新たに名前も変えて、心を変えて行くためにも再登録なさってください。
ここは生まれ変われるのです。
私たちは見捨てはしません。
より良い道、より良い生き方、苦しくならない方法を提供させて頂いているだけです。
自己内ドラマの悲劇のヒロイン思考の罠にかかってはいけません。
それも想念の為せるわざなのです。
返信とはことばでのお返事を返すことではありません。
返信すべき相手はあれこれしてくれている。
彼らに対する誠意、信頼、信任、信愛に返信するのです。
「ま。」さんの返信、変身を御祈念申し上げます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

変わってみたいです。

お返事ありがとうございます。

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