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対人関係における気分のムラをなくすには

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有り難し有り難し 17

人への気持ちがコロコロ気分が変わる時があり、とても疲れてしまいます。

例えば、自分がAさんは意地悪だから嫌い!と思っていたとします。Aさんが欲しいものがありました。それはAさんにとってはなかなか手に入りませんが自分は容易に手に入れられるものでした。当然、そのことは黙っておこうと思っています。しかしある日突然そのAさんに対して見返りもなく(すごいと思ってもらいたいわけでも、感謝されたいわけでもなく)急に「そんなに欲しいなら…」という気分になり、「うちの近くで手に入るから買っておくよ」と手助けをします。その数日後、なんで私はこんなに嫌いなAさんに手を差し伸べたのだろうか!?という気持ちが突然押し寄せて、嫌な気持ちになります。Aさんが「あの時はほんとにありがとう!またよろしくね」と言ってくると、余計に「あんなにいつも意地悪されてるのにどうして私は助けたんだろう。せっかくこれまで上手に距離を置いていたのに!」と自己嫌悪に陥ります。

こんな感じで、ちょっと例が微妙なのですが、基本的には「嫌だから距離を置こう」と思っていてその方針でやっていこう!と決めていたものが、何かの拍子に「いいじゃないか、受け入れよう」と心の中でガラリと変わります。そしてまた「嫌だから離れよう」に戻り、受け入れたことを大後悔するのです。小さなことから大きなことまでよくあります。

この気持ちの浮き沈み(主に対人関係に対して。)はどうコントロールしたらいいのでしょうか。嫌なことをされてもその相手を適当に受け流し、時に受け入れることができれば心が楽になり生きやすいと思います。そんな考え方になりたい。ただ、そのような気持ちには一瞬しかなれず、その時の行動を後々後悔するのに疲れてしまいました。どうやったらこの気分のムラをなくせますか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

悩むべきことを悩む

対人関係の悩みと言うのは尽きないもので難しい問題ですね。
だから、

>相手を適当に受け流し、時に受け入れることができれば心が楽になり生きやすいと思います。そんな考え方になりたい。

と思うのも無理はないのでしょう。そうなのでしょうが、じゃあ仏様はどうだったのか、悟ったのだからなんの悩み苦しみもなく飄々と過ごされていたかというと実は違うのです。例えば『正法念処経』には

「智者の常に憂をいだくこと、而も獄中に囚わるるに似たり。愚人の常に歓楽すること猶し光音天のごとし」

とあるそうです。

つまり、智者はあたかも獄中に囚われているように常に苦悩している、一方愚者はまるで天に住んでいるように我を忘れて満足しているというのです。

苦悩すべきことを苦悩するのが智者。それにたいして私たちの在り方と言うのは苦悩すべきことを苦悩できないのです。それどころか「苦悩せずにすむはずだ」という立場で苦悩している。どこまでも今の苦悩は受けるべきでない不当なものだとしか考えられず真正面からは苦悩できない存在なのです。

それはなぜかというとおっしゃるとおりコロコロ変わるからなんです。ブレブレなんですよ。悩みすら悩み切れない。煩悩にまみれていると言いながら煩悩すら徹底できないんです。どこまでも自己保身で取り繕い、いい人ぶってみては、それでもやっぱりあーでもないこーでもないとまた愚痴る。

挙句の果てが見ざる言わざる聞かざるの「事なかれ主義」です。問題をなかったことにするのです。これが娑婆の猿知恵です。

仏の智慧はそうではないんですね。苦悩を正面から引き受け、どこまでも人と出会っていこうとする。問題を私の事として引き受ける。その道は楽なものじゃないんです。重く苦しいものなんです。仏はそういう私たちと関わるのは「重担」だと言います。

これは単に重い荷物を持つだけじゃない。結局のところ重いと言っても自分に担えるかぎりだけ持ってあとはほっぽりだすのが私たち。仏が「重担」というのは自分が押しつぶされてもけして放り出さないで担うという意味だと宮城顗という先生が教えてくださっています。

厳しいですが、悩み苦しむところから始まるのだとおもいます。ブレブレな私を認めて、その上でどう関われるか…正解はないのです。
どこまでも問い続け、試行錯誤するものなのだと思います。お互いに精進しましょう。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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柔軟に対応なさって

拝読させて頂きました。なるほど、人との関係は大変難しいことですよね!親しい方々でも疎遠の方々でも気をつかうことはままあります。
やはり人との関係とは気がつかないだけで常に移り変わりゆくものでしょうね。
親と子の関係でも産まれて間もないとき、幼少期、成長期そして成人した後では関係は変わっていくものです。
親しき仲にも礼儀ありですからそれぞれにお互いを尊重することは大切ですからね。
親子関係でさえそうなのですから、義理の親子関係や親戚との関係、まして身近な他人や疎遠の人たち、或いは仕事上のお付き合いや隣近所の人たちとのお付き合いもだいぶ変わっていくものと思います。
人と人とのご縁は常に片時も休むことなく移り変わりゆくものなのですよね。
そういった移り変わりゆく関係の中で私たちは生かされているのですから。
であるならばあまり固定的にがっちり構える必要はないのでしょう、いつもいつも構えていては疲れ果ててしまって普段の生活の中での対応ができなくなってしまいますよね。

であればより柔軟に対応できるような自分自身でありたいものです。常にかたいじ張らずにリラックスしてみて、その時そのとき対応していければいいと思います。

昨日の敵は今日の友でめあります。
なんでも八方美人にすればいいわけではありません。が、しかし無理にあの人は敵この人は味方と決めつけることもないと思います。
またよくよくお付き合いしていきますと人それぞれに相性がありますよね。合わない人と無理やり合わせることも本当に大変です。ですから必要最低限のお付き合いでもよいかと思います。

人との相性はわかりません、ましてその後どの様な関係になるのかは余計にわかりません。

先のことはだれにもわかりません。
ですから自分自身が余裕を持って柔軟に生きていくことが大切かと思います。

あなたがこれから心も身体も柔軟にお健やかに生きていかれます様にとお祈りさせて頂きます。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

kousyo Kuuyo Azumaさま
ご回答ありがとうございます。「無理にあの人は敵この人は味方と決めつけることもない」、おっしゃる通りです!どうしてもその線引きをする方が楽で、自分でルール作りをしてしまってることに問題があったかと思います。移りゆくものに対して柔軟に対応できることは理想です。まだ私には修行が必要ですね(>_<;)

吉武文法
ご回答ありがとうございます。ブレブレでコロコロ変わるのは私だけではないと知り、少し安心しました。苦悩するべきことに苦悩できない、本当にそうだと思います。その段階にありません。悩むこと、苦悩することからは出来るだけ遠ざかりたいと思いがちですがそうではないのですね。放っぽり出せること、見ないふりをすることを目指してしまうところでした。勉強になります。

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