何も信じられない
人間不信、社会不信が募りぐずぐずとした感情が続いています。
「幸せそうな人」に出会う経験に乏しいためか、誰もが不平不満をこぼしながら、そんな自分を誤魔化しながら、他人をこき下ろしながら生きることが当たり前のように思います。誰も幸せじゃないけど、生「まれて」しまった以上仕方なく生きている。「皆そうなんだから、皆でずぶずぶ泥沼に溺れて破滅しようよ」
生きることは幸せになることではなく、ただただ消費されることなのではないかと考えてしまいます。肉食動物が草食動物を食べるように、害虫を潰すように、何か自分よりも大きなものの都合で弄ばれることが「生きること」のように感じてしまいます。救いなんてない、命とは何かの玩具でしかない。いらなくなったらゴミ箱にポイ。そんな風に命の選別が行われる時代ではないかと思います。生きることがどんどん難しくなり、生き残るために蹴落とされる人間がどんどん増えていくはずです。
生きてさえいなければ、生きているという意識さえなければ、誰もが憂うことなくいられた筈なのに。対人関係で躓き、組織というものに絶望し、存在さえ尊く思えなくなったことで、生きることが非常に難しいです。しかし生きている以上、社会的存在としての役割を果たさなければなりません。「皆辛いから社会はあなたの保障はしないけど、あなたは社会に貢献してね。生かしてあげてるんだから」
誰も幸せになれない世界で、
いのちの選別が行われる時代に、
これから悪くなっていく将来のために、
何も知らない茹で蛙となって弄ばれることが求められる。
けれど、結局はこれも言い訳なのでしょう。生きることは矛盾の中を進むことであり、決して全てが満たされることはなく、それでいながら奇跡を望んでしまう私が浅はかなだけでしょう。救いを求めていながら頑なな私は一体何なのでしょうか。自分で自分が嫌になります。
生きる気力が危ういです。「どうにかなる」と「どうにもならない」の狭間を大きく揺れ動いています。何度も同じ言葉を繰り返しては、関わる人々を困らせてしまいます。何を言ったところで、何をしたところで、結局は自分の在り方が原因なのでしょう。
自分を含む何もかもを憎んでいるのかもしれません。信じられるのは空想の世界だけでした。諦めたくないけれど、現実の何かを信じることが難しいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
無生の生
あ、私は幸せです。幸せな人ここにいます…まあ私の話はどうでもいいですね。
さて、これまでのご質問も拝読しました。今回拝読して感じましたのは「誰も」とか「社会」とかいう抽象的な言葉に酔い…迷い…逃げているような印象をうけました。
「誰も」幸せじゃないのではなく、「あなた」が幸せではないのでしょう。
「社会」が生きずらいのではなく「あなたの目で見て感じるあなたの世界」が生きずらいのでしょう。
そしてもうお気づきなのでしょう。
>何を言ったところで、何をしたところで、結局は自分の在り方が原因なのでしょう。
こういう事実に。人はこの事実の大きさに押しつぶされてしまう時も多々ありますから周りのせいにすることが悪い事ではありません。しかしその悩み・苦しみの原因が他ではなく他を見るこの私にあると引き受けられた時、社会や世界がまた違って見える事でしょう。
しかし、
>生きてさえいなければ、生きているという意識さえなければ、誰もが憂うことなくいられた筈なのに。
この一文はいいですね。すごくいい。なんだかとても仏教的です。
生まれたからここにいるのではない。「私」がいて「私」が生きているのでもない。
生まれたことは縁の一つにすぎない。あらゆる縁が整ってたまたま今・ここに存在している。
>生「まれて」しまった以上仕方なく生きている
それもまたよしかもしれない。しかし現実は誰も「仕方なく」生きろとは言わない。
「仕方なく」生きたければ生きたらいいし、「精一杯」生きたければ生きればよい。「こうあるべき」「こうしなければいけない」はない。
不自由と叫ぶ自由がある。自由に生き、不自由を楽しむ自由もある。全ては「私」次第。その「私」は今・ここにたまたま生かされている私である。
すがるように信じるべきものは何もない。私は私がしたいようにすると信じるのみです。その私を信じてくれているはたらきが仏法です。
追記
自分次第と言っても、その自分は縁によりあり得ている自分です。つまりは縁次第。しかしこれは運命論ではありません。選べぬ縁に対し私がどういう態度をとるかを選ぶ。その態度により開けていく可能性があるのが縁でしょう。運命はこれからも決まっている事。縁はこれからについてはわかりません。どういう行動を選択するか、そこに私の責任があり、結果責任は縁におまかせしときましょう。
質問者からのお礼
全ては自分次第。それは可能性の無限の広がりのようにも思えますが、私にとっては「自己責任、自業自得」の印象が強いです。結局自分が悪いのだと頭ではわかっていても、改善できない自分がいて、それをまた責める悪循環です。
指摘されたら、反省して、改善する。そんな「当たり前」ができないから、自分は死んだ方が良いのだと思いますし、できない自分は何なんだと思います。
追記
結果責任を縁にお任せする。ひょっとしたらそんな発想が無かったのかもしれません。結果を出すことが当たり前で、結果を出せないのは自己責任。そんな風に考えておりました。
結果を出せない、有用な存在になれないと生存権が得られないのが社会であると思い、「結果を出せないこと」に対する強い恐怖があります。それ故に「いのちの選別」という言葉を用いました。