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何をするのにも実感が湧かない…

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有り難し有り難し 39

私は、今大学生です。
最近気になることがあり、相談させて頂きました。
私は、相手が自分に向けて話をしてくれているのに、まるで他人事のように聞いている自分がいます。また、自分の人生を自分の足で歩んでいる感覚があまりありません…
何をするにも実感が湧かないというか…

その原因は、きっと今まで「親にこうしなさい。」と言われたことをしてきて、何か選択する時も自分ではなくて、親がどう思うかで選択することが多いからではないかな?と思います。
私は、将来親元から離れて生活をすることになるのに、今のままでは自分に無責任で、人任せの人生を歩んでいってしまう気がします。

あと、何をするのにも自分のことではないかのように他人事だと思えば、何か失敗した時、人から何を言われても傷つく事もなく、すぐ忘れることが出来て、気持ちが楽だからかな?と思います…。今まで気付かなかったのですが、最近そう感じるようになりました。

だけど、一度きりの人生。これからは、しっかり自分に責任を持って自分の足で生きていきたいです。「何をするにも親に聞く。」「親に聞けば間違いない。」そんな考えも治したいです。

何かアドバイスがありましたら、教えて頂きたいです。よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

頭で考えていることが優先されているだけ

おそらくあなたは私がこれから回答することを違う受け止め方をされてしまうでしょう。
もし、正しく受け止められたのであれば、問題の根本が明らかになり心は晴れやかになり疑問も何も残りません。
ちょっと読んでみてください。あなたにも通じることがあるはずです。
私の所には📞お悩み相談の電話が寄せられますが、大体の人は人の話を聞きません。
タダ電話だからっていつまでも長電話で人の話を聞かない人には私は容赦しません。
ブチキレて喝を入れます。※仏智キレ
彼らは私の話が「耳では」聞こえてはいます。
ですが、話を全く聞いていないのです。
受け止めもしない。疑問にも思わない。分からないのにハイハイ言ってるだけの人もいます。
つまり、私がAと言ったことに対して、彼ら彼女らはそこからAをスルーして感想や自分がその後に思ったこと、連鎖的に湧いてくる思いを相手にしてしまうのです。
実はこれこそがあらゆる苦しみの根源なのです。
名づけて「高速割り込み思考」「自分の思ったこと最優先選択モード」。
これらはこれ自体が苦しみにはなりませんが、人を正覚・悟りから遠ざけるボンノウ・魔ハジュンです。
たとえばお釈迦様が悟りの話をして1000人中700人が悟りを得られたとします。
ところが残り三百人は真意を会得しなかった。
それはなぜか。
私見が先立つのです。
自分が思ったことが脳内で優先される。
辛口でいえば、お釈迦さまが説かれる人生が劇的に変わる・救われる話なんて彼らにはどうでもいいのです。
そんなことより「オレが思ったこと」の方が好きだからです。
そういう脳みその使い方をしている。
私の尊敬する老師の坐禅会にも老師の話を「聞けない人」がときどきやってきます。
せっかく悟りの話をつまびらかにしてくださっているのに「聞いていない」。
自分のことをやってばかり。
自分が思ったことをやりたい。
自分が考えたことが正しい・本当だと思いたいからです。
厳しい言い方ですが愚かしいと思いませんか。
自分の優先していることが邪魔になっていて、本当に聞くべきところを取り入れない。
それをやり続けて救われなかったのに、それでもまだ自分の思ったことを優先する。
人間にはそういう「自分を最優先にする思考」が瞬時のうちに生じています。
今は意味が分からないかもしれません。
何を言っているかわかるまで自分を見つめてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

返答ありがとうございます。
たしかに、お話を聞き終わった後に頭の中で、自分の考えていることが優先して、終わっていると気が付きました。
そういう癖がついてしまっているので、治すためにこれから努力していきたいです。

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