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悩みすぎて頭の中がぐちゃぐちゃです、助けてください

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有り難し有り難し 21

僕は声優を夢見て上京してきました。

周りの同年代の人達はどんどん事務所に所属してテレビにも出たりしているのに対して、
僕はテレビに出たこともなければ事務所に所属もしていません。

年齢的にも歳を重ねる事に声優になりにくくなると聞き焦る一方です。

周りの人達がどんどん周囲に認められている中、
僕は「役立たず」「下手くそ」「声優に向いていない」と言われている気がしてなりません。

「こんなネガティブだからダメなんだ」と思い無理にでもポジティブになろうとする度に余計自分が惨めになります。

周りが羨ましくて苛立ちさえ覚えます。

お金もない 認めてもらえない 気持ちを支えてくれる人もいない
何をしても楽しくない幸福感を得られない、何一つ満たされていない。

こういったネガティブな考え方が夢を掴むことが出来ない要因なのでしょうか。
もし、この考え方がかえられるのであれば教えてくださいお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

声を超えて人の心に溶けていくべし

💀けけけ!甘いのぅ。青いのゥ。世間に認められようということ自体がそもそも間違っているわ!
ならば落ちて堕ちてどん底の人間の苦悩やうめきを経験してそういう表現力を駆使して人を引き付けるべし。

事務所パワー、コネ、広告力、宣伝力を使えば誰でもそこそこのし上がれるものでしょう。
そういう評価を求めるならここではなく他へ行ってもっと欲丸出しにガツガツ行くことです。
そうではなく、本当に声を無限に用いえるようになるべきでしょう。
子どものように無条件で大人の心に入っていくような。
人の脳、心をして導くような。
世間で認められずとも私が認める神ヴォーカリストの一人ロビン・マッコーリーはその声が❝啼いて❞います。泣きのギターマイケルシェンカーの美しい楽曲、メロディーに乗せて凄まじい共鳴を起こします。
聞く耳を持たないミーハー人間は有名だからいいとか言ってるだけで本質を見抜けません。
本当にスゲー人間を目指すことです。
本当にわかってくれる理解者を持つことです。
本当に自他ともに最高に法悦に導ける内容・提供物を持つことです。
そうすれば歴史に残るのです。
誰かが分かる。
「コイツスゲー。」と思ってくれるでしょう。
有名になりたい、カネ稼ぎたい、評価されたいという方向性を捨て去って本当に芸の為に精進することです。
するとその内、その芸の方が教えてくれるのです。
芸が法にまで高まります。
いい声を出そうと思っている声は、人はそれを聞けばそこを感じ取ってしまうものです。
葬儀屋さんの司会者にも多いのですが、ためて、ためて、これでもか、と泣かせんばかりのいやらしい司会者という人が居ます。
そういうものは迎合であり、自己陶酔にすぎません。
真の自利利他とは芸にすべてを捧ぐ。
作品の為に。
法の為に。
おのれ無き声を目指すことです。
それではマッコーリー様の世間で評価されずとも通には定評のある美ヴォイス、神ヴォーカルをお聞きください。
https://www.youtube.com/watch?v=8tTIJtTFaik
2:45からの声によるパラダイスの表現に開眼されたし。
https://www.youtube.com/watch?v=butNg8ETxRc
悲しみからの希望に転ずるトコロのフィーリングを。
5:10からの神ギターに昇天すべし。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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