私の考え方に不安を感じたときに、どう対処したら良いですか?
この前、地下鉄サリン事件などの平成の凶悪事件を起こした団体に属していた7人の死刑囚の刑が執行されました。事件が起こった当時は小学生だったので、テレビでニュースを見ても怖いなぐらいしか思えず、ほとんど理解できていなかったと思います。
「教祖は、どういう考えで事件を指示したのか?」というのは議論に上がりますが、結局本人の口から語られることはありませんでした。たぶん、強固に閉ざされた心の内側にあるのだと考えています。インターネットやテレビの情報を集めると、想像することは可能ではないかと思います。根っこには、子供時代に満たされなかった愛情があるのではないかと考えています。その愛情の枯渇が、お金や権力への執着だったのかと思います。彼の中での正しい政治というのがあり、それを広めたいという考えがあったのかもしれません。その目的を達成するために、邪魔な人は殺しても構わない。そう考えていたのかもしれません。
どこかの国のトップが側近を次々と処刑したことやこれまでの世界の宗教戦争や派閥争いと何も変わらないのではと思います。もちろん、彼らがやったことには、全く賛同はできません。方法論としては、こういうこともあるのだなと思います。
信者も、彼らの心の暗い部分が、教祖と共鳴してしまったのだと思います。これも、ある特定の人を好きになったり、アイドルの熱狂的なファンになったり、ある有名人のファンになったりするのと何も変わらないのだと思います。
信者は味方で、非信者は敵。「味方を増やさなければ」という考えは、価値観の押しつけなのだと思います。「価値観の押しつけ」と言えば教育の現場でも、授業の結論と違う発言をした子供を叱責することがあります。
以上のようなことを考えると、「あぁ、あなたはそういう考えなのね」と受け止め、好きにも嫌いにもならない。自分の心のセンターが働いて、好き嫌いの感情が生まれてくるかもしれませんが、「自分と考え方が合わない(合っている)のだな」という判断材料にするだけに止める。それが大事なのかと思いました。傾倒するのは危険だと考えてしまいました。
「自分自身も価値観を押しつける」、「仕事関係や病気関係のことで勉強したことを伝えたい」というのは、実は危ないことではと考え、これからどう振る舞っていいのか分からなくなりました。理科を突き詰めると、新興宗教っぽくなってしまうのです。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
それは、相手の受け取りです。
こんにちは。最後に「理科と」と書かれているので、思い出しました。お久しぶりです。
さて科学者は謙虚でなければならないと思いますが、私は以下のように解釈しています。
「全ての歴史は現代史である」と言った学者さんがいました。どんな「歴史」も、それが記述されたものであれば、その「記述した時代」の影響=著者の影響を受けている、というものです。そりゃそうです。貴方はいかが考えますか?
それを援用すると
「全ての科学は仮説である」ということになるかと考えます。
もちろん、定義の問題はあります。「これこれを、○○と名付ける」ということ。でも「その記述・表現が最適なのか?」と問われれば、「いま、仮にこの現象を○○と名付ける」「この本では、この現象を○○と名付ける」という、やはり仮説であることが露呈します。
ですので、あなたが「価値観を押し付ける」とか「勉強したことを」と言っているのは、「今日現在、あなたが」という制限を負っているのです。それを忘れた時に「押しつけ」になるのでしょう。理科でいうなら、「現在行われているテストでは、この説が定説になっているため、こう答えると正解とみなされます」です。「今のところ、この考えが最善であろう」というのをみんなで認めて共有している…。如何でしょうか。
「人は亡くなったらどうなる?」については、同じ坊さん同士でも、宗派によって答えがまるっきり異なります。「極楽浄土へ行きます「密厳浄土へ行きます」「灰になります」などなど。それらの仮説の中から、「とりあえず今、自分としてはこの仮説が一番フィットする」というのを選び取っているのだと思いますね(この発言、若干浄土宗当局からは睨まれそうです)。
さて長々と述べて来ましたが、「誰が何を言っても仮説なのだから、結局は受け手側の受け方の問題である」というのが回答の趣旨です。もし子ども相手ならば、少し事情は異なるかも知れませんが、ご参考まで。
追記 ご返信ありがとうございます。「語ること」はできても「押し付けることはできない」と知るべし…あるいは知らしむべし、それが私からの答えなのですが。
質問者からのお礼
>佐藤良文 様
こんばんは。ご回答、ありがとうございました。いつもお世話になっております。
>>「全ての歴史は現代史である」と言った学者さんがいました。どんな「歴史」も、それが記述されたものであれば、その「記述した時代」の影響=著者の影響を受けている、というものです。そりゃそうです。貴方はいかが考えますか?
確かにそうですね。ある事件が起こった直後に書いた人の見方と後の時代の人が書いた人の見方は違いますね。仏教も、お釈迦様本人の考えとおそらく大分違っていますよね?
数学や理科など自然科学は、「今のところ、この考えが最善であろう」という理解で物事を進めます。必要があれば、学会で定義の見直しを行います。捉え直しを行い、必要があれば、変更します。私が中学生の頃は、太陽系の惑星は9つでしたが、今は8つです。自然科学の世界は、話し合って定義などの変更を行います。
よく、「今の若者は、道徳心がない」と年配の方は仰いますが、「年配の方が生きていた時代は正しくても現代ではちょっと違う」ということになりますね。道徳の中身も変わるということになるのでしょうか?となると、その都度その都度話し合って、その時の最善解を定めることが大切になりますね。
かつて、仏教のある宗派やキリスト教徒が、時の権力者に弾圧された時期があって、今は認められているということがあるように、時代とともに変化するものなのですね。
考え方を統計処理することはできませんが、考え方を援用すると、次のようになると思います。ある枠組みを作る場合、どこかで区切る必要があります。そうすると、必ずそこからはみ出る人が出てきます。そういう人は、異端者であり、弾圧や迫害、いじめの対象になります。ということは、これらはなくならないということになります。
自分の軸を持ち、五感を使って、自分がどこに位置しているのか認識し、判断し、行動することが大切なのかもしれないですね。
追記 再回答していただき、ありがとうございました。
「自分の考えを表明することはできるけれども、その考えをどう認識し、判断し、行動するかは受け手による」ということですよね?
「~のようにやれ」と、押し付けることはできないということですよね?