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初めまして。よろしくお願いします。

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自分のプロフィールについてお坊さんの方々の考えをお伺いしたいです。
このことは公言することを止められています。他者の方々に公言すると、他者への影響が大きいと考えるので公言は控えたいと思います。

しかし、この自分の経験が少しでもこの世の中の人々のためになればと想い、書きました。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

もしそのことで傷つく方が居るのであれば

開運寺 秋山現信です。
私も何時も余計なことを言っておこられてきました。
話をするにも、答えるにも、一呼吸おいて、回りを見渡し、気を配る。
また、聞く方 見る方にとって、とらえ方はさまざまです。よかれと思って発言したことが、大問題になることもあります。
もし、問題が少しでもあるとお考えでしたら、差し控えるべきではないでしょうか?
私の経験からですが。

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おきもち

3月11日の突然起こった東日本大震災。私の住む茨城県水戸市も大きな被害を受けました。それ以上に、私の大好きな、また沢山の親友や仲間が居る東北地方が更に大きな被害を受けました。当日はまだ東北地方は雪、寒い寒い日の出来事でした。 自分自身も被災し、当寺、開運寺も避難所となり、そこで避難所の大変な状況も体験し、拙悪な状況も実感しました。 そのことが、一つの切っ掛けとして直ぐに東北の寺院の支援活動を展開しました。そこで、支援の輪が広がり、様々な出会いがありました。 このホームページは、今後の支援活動に繋げたく思い開設いたしました。 40sの由来は、鹿島アントラーズ 小笠原満男さんの背番号にちなんでつけました。私自身もサッカーの大ファンで、今回の小笠原選手の行動、理念に深く共感しました。また多くのサッカーファンが協力して下さり、支援の輪が現地にも広がりました。

誤って用いれば邪となるも、転じて福楽となす。

人という器の中に入っている❝そのもの❞を強く感じ取れる能力にたけておられるのでしょうね。別に悪いことではなく、あなたの能力でしょう。
人相、骨相、その人の持っている雰囲気(オーラ)、本性を瞬時に見抜ける力がある人が存在するように、あなたもそういう能力にたけておられるということです。
人は行いによって変わります。
心も行いによって変わっていく。
そのひとを観るのではなく、その人のこころ、心性を観る。
大切なのは、そのこころをより良き道に導くことです。
その能力、力を人の為に役立てたいと思うならば、奇を衒う道にゆくこと無く、純粋に菩提の道をまっすぐ進むべきであると思います。

菜根譚に次のようにあり
醲肥辛甘(じょうひしんかん)は真味(しんみ)に非ず。
真味は只だこれ淡なり。
神奇卓異(しんきたくい)は至人(しじん)に非ず。
至人は只だこれ常なり。

宝剣を持すれど、用い得ずんば宝剣に非ず。
あなたが他者の事が分かるならば、自分も分かるはずでしょう。
毒か薬かわからぬものを持っている。
それを毒にしたままにすればあなた自身を損なう事になる。
どうぞ、お役立てください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございました(^ ^)
丹下覚元さんの言葉、文字使い、文章の細部にわたって、自分の心に響いてきました。
心の迷いが軽くなりました(^ ^)ありがとうございます。
菜根譚の意味も調べて、素晴らしい御言葉だ。と想いました(^ ^)
まだまだ丹下覚元さんの言葉は十分に理解できていないと思いますが、次のステップへの道を示していただき本当にありがとうございます(^ ^)
自分自身、埼玉県の出身という偶然もあり、是非お会いしてお話を聞けたらと思っています(^ ^)
明後日、日曜日に天岑寺まで伺いますので、禅の瞑想会へ出席をお願いしたいのですが。
先ほど、お電話したのですが、不在だったため、お時間がある時に折り返しお電話いただけたら嬉しいです(^ ^)
回答、本当にありがとうございました(*^^*)

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