無くなる前提の考え方を直したい
私は昔から色んな物事が無くなってしまうことを前提に考えてしまいます。
例えば
人の命はいずれなくなってしまうから目の前にいるこの人もいつかいなくなる。
この人が言ってくれて嬉しかった言葉もいつか忘れてしまう…などです。
だからこそ人に優しくしたり何回も思い出したりしてプラスのこともあります。
しかし簡単に「死ね」や「もう無理、死にたい」などの言葉にすごくイライラしたりどうしようもなくさみしくなる時があります。
この考え方がふと頭をよぎるだけで目の前の相手が生きていてくれる幸せといなくなってしまう不安で胸が一杯になり迷惑になるのも構わずに泣きそうになります。
誰か大切にしていた身内が亡くなった等は親戚の人しかいませんし、大きな病気をしたわけでもありません。それなのにどうして生に執着してしまうのか本当に分かりません。
質問が分かりづらくて申し訳ありません。
目の前のことを手放しで喜べる考え方をするにはどうしたらよいのでしょうか。
またやはりこの考え方は変えて行くべきでしょうか。
どんな御意見でも構いません。
感想でもよいので、よろしければ回答をよろしくお願いします。
ここまで読んでくださって本当に嬉しいです。ありがとうございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あるようでいて無い。
あなたのおっしゃるように、常に無の前の様子は消えて無くなっているのです。今の様子は「い・ま」と言っている側から消え去っています。しかしそこに寂しさはありません。さっきの様子がなくても困らないのです。食事をしても目の前のご飯がなくならないことの方が問題でしょ。変化し続け、まるで無いかのように消えていくから世の中がうまくいくのでしょう。言葉も同じこと。そこに意味を持たせると、そこに執着します。にぎりしめ、苦しみます。汚い言葉、刺激の強い言葉、優しい言葉、そうして意味をつけるのは考え方です。考え方は人を苦しめます。考え方と関係なく音、声は瞬間に消えます。そして問題はないのです。
考え方より事実に生きるのです。
質問者からのお礼
ご回答いただけて嬉しいです。
考え方よりも事実に生きるという言葉がとても胸に響きました。
本当にありがとうございました。