「罰(バチ)があたる」とはどういう概念なのでしょうか?
「罰があたったんだ」とか「罰があたる」と言う言葉がありますが、仏教ではこれはどういう概念になるのでしょうか?
それはどんなに反省しても関係ないのでしょうか。それに、悪いことが起こったのは自分が悪いことをしたからだと言われると、未熟な考えだと思いますが「じゃあ今病気や貧困、事故だったりに会った人は全員悪いことをしたって言うのか。」と思ってしまいます。
ぜひ、教えて頂きたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
わたしたちには、自分でどうする事もできない、
思いの外からやってくる出来事があります。
おしゃかさまはそれを生老病死の「四苦」などとして
説きました。一方で、同様にわたしたちには
思いがけないところから齎されている沢山の
惠みがあります。太陽のひかりや水のひとつぶひとつぶ
日本という、それでもいまは安心の生活が出来る
生活、こういったものを「恩」とよびました。
そうしたどうすることも出来ないことがらと対して
私たちが生活のなかで恵みを与えていこうという
動きがあります。席をゆずるだとか、元気にあいさつを
するだとか、自分がしてもらってうれしい事を
だれかにしていくこと。これを私は「徳」と呼んでます。
徳は自分でするものです。だから善徳もあれば悪徳もある。
自分のこころ次第で如何ようにもなるのです。
それによって、自分に様々な形で返ってくるものがあります。
善徳によっては、あいて等から「恩」が返ってくるかもしれません。
しかし、悪徳によっては手痛いしっぺ返しがあるかもしれません。
こうしたことを「罰」と言えるのではないかと思います。
しかし、罰というものは元来仏教には存在しないものでもあります。
なぜならば全て私たちにもたらされるものは「苦」だとしている
からです。
それをわかっていれば、実はこころはそんなに動かされるものでは
ないとするのです。これを寂静といいます。
自分の為したことによってどのような形で返ってくるかはわかりません。
バタフライエフェクトといって、遠くで蝶々が羽ばたいたことで、
戦争が始まるということもあるのです。
すべては縁の為せるものです。自分がしてしまったほんのちいさな
事であっても、なにも起こらないことはない、というのが縁というもの
です。
ですからわたしはこう思っています「あとはおまかせ♪」
わたしもきっとたくさんの悪いことをしているでしょう。
私は受け入れるだけです。すこしでもお返しできるように、
日々みなさまの幸いと、福がありますようにと祈っております。
あまりばちというものを気にせずに、気になったならば
徳、誰かへの祈りによる行いを致しましょう。
おまかせのきもちが芽生えて頂けたら幸いです。
原因と結果 因果の法則をライトに言ったもの
これ(A)をしたり、しなかったりすれば、それ(A)が原因となって、その後に、ところどころに間接的にアレ(B)が縁(はたらき・効果)として作用し、やがて結果(C)として、望ましくない悪い事「それ」がおとずれるということを、罰が当たった、というだけです。
正式な仏教の教理・考えというより、後天的に生まれた仏教の思想が、民間・家訓レベルでライトなものとして広まっただけです。
事故などは本人の作り出したことではありませんから、罰でも何でもありませんからご安心ください。
人が悪い事をして苦しまないように道徳・倫理を説いた仏教の言葉遊び的なものです。
ですが、バチは因果の法則としてみれば、ちゃんとあります。
良くも悪くも結果がそうなる、ということです。
悪いことをする、悪い言葉を話す、悪いことを想うだけでも、ちゃんと因果の法則にのっとったバチ(結果)はあるといえます。
罰が当たるよ=「今後よくないことにつながると、愛するあなたの為に良くないから、今後はそれは絶対にしない方がいいよ」という愛情の言葉として捉えてみましょう。
質問者からのお礼
確かに善いことをして必ず恩が返ってくるのか、悪いことをしたら必ずしっぺ返しがくるのかは誰もわかりませんよね。
私もおまかせの精神を身に付けたいと思います!
ご回答くださりありがとうございます!
悪いことをしないための言葉遊びという考えがあるのですね!
愛情の言葉として捉えることはとても良いことだと思いました。
ありがとうございました!