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逃げたい、でも逃げられない

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

以前にも似たような質問を何件もしましたが、また相談させてください。

私は今高校二年生の女です。

去年の1月頃からバス車内でパニックのような発作が起きてから学校に行けなくなり、やむを得ず休学を決めました。

休学を決めてからは気持ちも楽になり、「来年の4月から頑張ればいいや」と思っていました。

ですがもうその来年の4月が近づいてきています。

もう不安で不安でたまりません。逃げてしまいたいです。

ですが去年から両親と「来年には復学しようね」と約束してきたし、学校にももう復学届けを提出しました。

というかもう一回休学するとなっても卒業する頃には私は20歳になりますし、何よりも学費を払ってもらってる父親はあと3年で定年です。
それに学校は休学できる期間が最大24ヶ月。つまり二年ということになります。
もうその二年の内一年は使ってしまいました。

だから何としても学校には行かなければなりません。

でも怖いんです。とても。ちゃんと学校に行けるかどうか。人混みのバスに一人で乗れるのか。

今度クラスメイトになる子は私より1つ年下の子です。もう絶対に友達できっこありません。

もし休学するなら1年生の頃にすれば良かったなと思います。
そうだったら復学したとしてもみんな入学してきたばかりだし、グループも固まってないと思うし友達も出来やすかったかもしれません。

でももう遅いです。ここまで来てしまいました。

しかし学校に行きたいという気持ちは全くないとは言い切れません。行ってみたいです。
また学校に行って友達が出来てみんなと楽しく過ごしたいと思っています。

でも怖い。ずっと家に引きこもっていたい。でも行かなくちゃ。でもバスに乗るのが怖い。友達できるか不安。
こんな考えばかり頭の中ぐるぐる回っています。

どうか私に学校に行く勇気をください。このままではどうにかなってしまいそうです…。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

これをしなくちゃの「これ」は実際の「それ」じゃない。

こんにちは。
日々、妻のラインで頭がパニックになっているたんたん丹下です。
妻の何気ない一言って、色ーんな意味でとらえられるものです。
言葉の裏を読んだり、声の調子からすると爆発するのではないかと、おそるおそるな事もあるものですが、実際は違うという事があります。
たとえばおじさんはこんなことがありますが、👇こんなことありませんか。
ラインが入る。
「(; ゚Д゚)📱何だ、このメッセージは…👿ヤバい…⚡怒ってる…あわわ…どうしよう」
いっそのこと、電話してみる。
「( ゚Д゚)変えに元気がない…👿ヤバい…切れてる…早く帰って来いってか…あわわ」
おじさんは、こんな時、お坊さんにお悩み相談「hasunoha」でお悩み相談をしたくなります。
ところが、実際に家に帰ってみると、ワイフは別に怒っていません。
それが実際のワイフなのです。
つまり私の中で「こうなっているに違いない」という妄想はどこまでいっても、現実じゃない妄想であって、このもうその方を優先して、これが真実であると思い込んでいることが迷いなのです。
おじさんが思った「これ」と実際の「それ」とはまるで別物なのです。
あなたもかつてそこでとても恐ろしい👿体験をされたのではないでしょうか。おじさんもおんなじです。💀コロサレルカト…オモヒマヒタ
一度深い恐怖体験をすると、次もそうなるんじゃないかな…という強い予防線がはられます。
次もそうなったら嫌だなぁという不安や恐怖が起こります。
ですが、私はそれでも「事実確認」をしたことで恐怖がすっ飛んだ経験があります。
「あ、さっきまで思っていた【これ】と実際に来てみて感じている【それ】とはまるで別物じゃないか…」
これを一度でも体験・確認する価値はあります。
実際に行ってみると、あー、なんだ、自分って想像力が過剰なだけなんじゃん、と分かるものです。
どんな凶暴な動物でも、そのもの自体には「恐ろしい」というものはついていません。
それを「おそろしい」と思うのは自分の思いです。
はじめはドキドキするものですが、事実確認=実際に本当はそれがどんな風になっているか
を「百聞は一見に如かず」で確認すると、恐怖はおさまります。
以前、不登校でお悩みだった方が翌日から行けるようになった方がおられます。
関心があれば親御さんと一緒に坐禅会にお越しください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。

確かに自分が勝手に想像してそうなるに違いない、と決めつけていました。

「これ」と「それ」を同じように見ても、実際は全く別物なのに一緒に考えていました。

その事に気づかさせて頂き、ありがとうございました。

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