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虫への嫌悪感を和らげる方法

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こんばんは。またお世話になります。

私は虫全般がとても苦手です。
夏は虫のせいで外出が苦痛です。
どんな虫にも命があるし、虫はただそこにいるだけで悪気はないということは頭では理解していますが、あの羽音を聞いただけで、そこにいる、と認識しただけで嫌悪感を感じます。

たぶん虫が意図せず現れたり動きや考えが読めないので怖く、嫌悪感につながるのだと考え、虫の知識を仕入れたり画像を眺めたりしますが全く交換がありません。

今も外で死にかけの蝉がジリジリと音を立ててもがいているのが聞こえます。
それを聞いて短い命や過ぎ行く夏に思いを馳せる余裕がありません。ただただ気持ち悪い、嫌悪感のみです。当たり前ですが虫に罪はありません。なのに死にゆくもの(虫)に対して早くいなくなれ、と思う私はなんと冷たい人間なのでしょうか。

どうしたらこの虫嫌悪症を和らげ、虫を意識せずに過ごせますでしょうか??
どうぞお知恵をお授けいただきたくお願いいたします。

※虫をあえて殺したりはしません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

秘儀・素手でゴキブリを触る方法

38年間ゴキブリが苦手でしたがこの夏、ついに3回もの素手ゴキ※に成功した丹下ともうします。
※素手でゴキブリを捕まえる妙技
結論からもうあげますと、人間の肉眼は虫をみた時点では、好き嫌いはその瞬間には何も起こしていないことをあなたが見破ればよいのです。
早い人はすぐに嫌悪反応を示しますが、瞑想人や坐禅人はただ、それをそれとして見ています。
耳も虫の羽音やセミの鳴き声を聞いてもそれだけです。
耳元で羽音がするのが嫌だというのがあっても、それは人間には防衛反応というものがありますから、攻撃してくるハチなどに類似する虫に対しては警戒して当然です。
ですが、ネット動画で虫の羽音を聞いても何も増えもしません減りもしません。
さて私が、如何にして素手ゴキに成功したかについて解説いたしましょう。(え、要らない?)
まず、虫そのものをじっと眺めます。
一切の付加価値をつけずに、ただの物体として眺めます。
初心者の方は「これはエビだエビだエビちゃんなのだ」というマントラを念じながらやるやり方もありますが、それについてはいずれ。
後は、自分とゴキとが一体となり、こちらに敵意が無いことを示しつつ、そっと上から(以下略)

この世は大きな海です。
実際の海にはプランクトンがワンサカいます。
それは目には見えませんが存在しています。
我々が生活している陸地も広い眼で考えてみれば海のようなものです。
空気中のプランクトンに相当する菌やカビやウイルスなどは知らない間に吸い込んだりしていたり、体内にも沢山存在しますが、あなたはまるで問題にはしていないはずです。
見た目がおぞましいのは、彼らが身を守るためのものなのです。
好きになる必要はありません。
ただ我々と深く関わっている事を忘れないであげてください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

生物はみんな不浄

仏教では、身体は不浄であると言います。
自分も他人も虫も動物も神様でさえも、本当はきれいじゃないのです。
でも、私たちは、普段の生活に必要なものについては「不浄」の感覚を麻痺させているのです。
例えば、知らないオッサンの唇にはチューしたくないのに、好きな異性にはキスできる。
動物の内臓は気持ち悪いですが、仕事で動物をお肉にする人はそれが平気になる。
つまり、虫と接する必要性があり、自ら積極的に虫に関わらなければならなくなったら、虫が平気になるのではないでしょうか。
しかし現実には、虫とさほど関わらなくても生活できる環境なわけだから、虫(生き物)本来の不浄のほうが勝ってしまうのです。
劇的な改善方法は思い当たりません。虫に慣れるように自ら積極的に虫に関わろうとするのが王道でしょう。
が、そんなことするくらいなら、時々虫を怖がる生活の方がよいかもしれませんね。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ