タイタニック
自他と利他について考えていました。
ふと、タイタニック(映画)のあるワンシーンを思い出しました。
タイタニック号が船長のずさんな指揮によって氷山にぶつかり、船内は大騒ぎになりました。
緊急用の小舟は数が少なく、乗客員の半数も乗れません。誰の目から見ても全員が助からないことは明らかで、我先にとパニックになります。船長はせっせと乗りました。船員に対し金をやるから自分や家族を優先して乗せろと言う者もいましたが、皆が皆必死で乗り込もうとするので、優先も何もありません。
やがて船が沈み初め、赤ちゃんを抱いたままの母親、自分をおいて少しでも多くのお客さんが助かるよう、最後まで小舟を下ろす作業にかかり続けた船員、家族たち、家に大切な人が待っている恋人、千を越える人々が氷点下の海に溺れました。
皆海でもがきながら、やがて凍ってゆきます。
それを離れた場所で緊急用の船に乗っていた人々は黙って見つめています。
ある人が言いました。
「この船はまだ乗れるのだから、彼らを助けに行くべきだ」
するとある人が言いました。
「今行けば、無理に乗り込まれて制限人数を越え、この小舟まで沈んでしまう。助けたいならあなた一人で泳いで行けばいい」
言われた方は黙ってしまいました。
(以上、映画からだいたいの内容を引用しました。脚色され、事実とは異なる点があるかもしれません。)
タイタニック号沈没事故では、こうして1503名の命が失われました。
質問です。
金を使って自分や家族を助けてくれと言った人は、間違っていますか?
お客さんを助けるために、自分の命を犠牲にした船員は間違っていますか?
小舟に乗っていた人々は、溺れている人々を助けに行くべきでしたか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁
正解・不正解という問題ではないでしょう。特に仏教は他人の行いの是非ではなく、自らを問う教えです。
お釈迦様の言うところの
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」ダンマパダ50
でしょうか。
しかし自分の行動を考えるために他の行動を考えるという事もわからなくはありません。ですがそれはその当事者の縁次第というものです。
その日その時その場所に居合わせた者がそのように考えそのように行動した
そういう縁が整えば我々はどんな行動をもします。人助けから人殺しまで何でもする可能性があります。我々は縁にふり回される存在です。
縁とは環境や条件や対象の意です。我々を包むあらゆる外的・内的な条件から我々は影響を受けます。より正確に言うとあらゆる条件の影響が形作ったものの瞬間が今この時の私です。我々が縁を受けるというよりは縁が我々です。
ですからたとえ正解・不正解はがわかっていたとしても正解をできる・不正解をしないということと分かっているかどうかは別問題です。
大事なことはその縁にふり回された我々がそのようにせざるをえなかった事実を悲しみ、懺悔し、それからどうするか問うていくことなのでしょう。
これは反省すれば何をしてもよいということとは別です。
何をしてもいいという「思い」から、思いにまかせて暴挙を振舞うのでなく、
悲しいかな縁にふり回されて恥ずべきことをしてしまったという「事実」から、その行為を問うていくことなのではないでしょうか。
どんな振る舞いをしたとしても救われる教えが仏教です。だからといって何をしてもいいというわけでもありません。
どんなことをもする可能性のある私が今まさにこうしてしまったという事実に立って、そこから問うていくのが仏の教えに照らされていく歩みであると思います。
良心と誠実
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
実際にその場で、その状況にならないと、真なる意味では、判断・評価できないこともございますが、皆、それぞれが自分の心に正直であったのではないだろうかと存じます。
そういった状況となった時に、自分が道義的にどうありたいが問われるところとなります。
できれば、いかなる時においても、良心を保ち誠実に努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口 英俊 様
ご回答ありがとうございます。
全くおっしゃる通りだと思います。
死ぬかもしれないことを前にして良心を保てるか、私もそれだけが気がかりです。
少し昔ならおおさま進撃の巨人だとか、
↑誤作動で途中で投稿してしまいました。
少し昔なら王さまゲームだとか、最近なら進撃の巨人だとか、周りがどんどん死んでいってしまう作品というのがありますけども、そういうのを見るたびに自分もきっと他人を押し退けて蹴落としてでも生き残ろうとしてしまうのだろうか、と不安になります。
吉武文法 様
ご回答ありがとうございます。
私は、自分のせいで船を沈めておきながらすたこらと緊急用の船に乗った船長の行為も、仕方ないと思います。愚かで非難されるようなずさんな仕事というのは誰もがしたことがあるはずですし、自分のせいで船が沈むのに自分はとにかく助かろうとした船長を批難している人が彼の立場だったとしても、おそらく、やはり自分は助かりたいと思うはずです。我先にと助かろうとする人たちも、悪いことではないとおもうんです。ただ道理的に理想ではないだけで。自分ならどうするべきであったかということを、仏教の視点から教えて頂きたく思って質問をさせて頂きました。
縁次第と聞いてしまうと、完全な不可抗力であって、自分では自分をどうにもできないような印象を受けますが……自制の努力も無駄なのか、と思ってしまいますが、その自制の努力を発する要因も縁次第で、本人が全力をかけて自制の努力が実を結ぶかどうかも縁次第なのだ、ということでしょうか。
「我々が縁を受けるというよりは縁が我々です。」
なるほど、私の解釈に誤解があるかもしれませんが、自分がAちゃんと仲良くなる、これを縁という視点で見ると個人単位で縁を受けたような気がしますが、自分はAちゃんと出会うまでの流れがあり、Aちゃんも自分と出会うまでの流れがある、つまり「我々が」線のように繋がっている縁なんですね。
「大事なことはその縁にふり回された我々がそのようにせざるをえなかった事実を悲しみ、懺悔し、それからどうするか問うていくことなのでしょう。」
やはり先程の私の解釈は間違っていたようです、すみません。
自分は縁次第で自制の努力は無駄なんだ、と解釈していましたが、どれだけ最大限努力をしようと抗えないものがあり、それを良くして(うまく言えませんが)いかなければならない、ということですね。
私はどんな時にも理性的でいたいと思っていますが、きっと今の私ではまだまだそんなことはできないとおもいます。私も自分の修行を重ねて行きます。