hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

やらなくてはいけないことについて

回答数回答 2
有り難し有り難し 24

私は昔からやらなくてはいけないことを後回しにしがちなのですが(夏休みの宿題を最後の1週間でやるなど)、それでも絶対提出期限は守ってきましたし、期限を守らない人たちが理解できないくらいでした。

ですが、最近後回しにする癖に拍車がかかり、本当に直前にならないと全く体が動かなくなりはじめました。
この間大学で発表があったのですがどうにも体が動かず、結局発表日に間に合わずに先生に頭を下げて発表日を1週間伸ばしてもらいました。悔しくて仕方なかったのですがその後もなかなか動けず思うような資料は作れませんでした。

ゲームなどは普通にしてるのでやはり甘えなんだろうと思う反面本当に体が動かなくて辛いです。
どうすればやらなくてはいけないことをやらなくてはいけない、と心から認識し、行動することができるのでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分の優先選択力を上手に駆使する

むかし昔、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。
おじいさんは山へ芝刈りに…と見せかけてカコっていた若い女(愛人)といちゃついていました。
おばあさんは川へ洗濯へ…、次の日も洗濯へ、一日中洗濯を選択していました。
おじいさんの不倫を知ってたのでしょうか。
心のお洗濯をしたかったのでしょうか。
川上からドンブラコ、ドンブラコ…桃が流れてきても完全スルーではありませんか。
「あー!桃より洗濯ぢゃ!」
ジャブジャブジャブジャブ。
「ブツブツ…まったく…あのジジイめ…!」
おっと、つい本音がポロリ。やっぱりじさまの浮気を知っていたようです。
婆さんはその怒りの心を洗濯に全身全霊でぶつけました。
ジャブジャブジャブジャブ、ザブーン!
人間の選択はしたいことを選択するようにできているものです。
ぜひ、
じさまはばさまより若いおなごを選択しつつも、家庭を維持ということを選択し、ばさまはじさまを責めるでもなく、離婚するでもなく、追及するでもなしに、ただひたすら洗濯することを選択しました。
やりたくないということは「やりたくないを言い訳にやらないことを選択して」いると知るべきです。
なぜできないのか?自分はダメだなーとか、あのジジイめ…!
「人を恨んでも畢竟じて益なし。」
人生は自分が今選択していることを力としてみていく方法もあります。
そのおばあさんの怒りのエナジーは洗濯に向けられ、スゲー洗っていました。その洗いっぷりは「あしたのジョー」の金龍飛が夜に蛇口の水を流しっぱなしにしながらずっと手を洗っていたように…!
ひたすら、洗い洗い、洗い続けたのです!
ジャブジャブジャブジャブ!ザブーン!
かくして、その洗濯選択エネルギーはDNAレベルで遺伝され6代後の世で花咲きました。
東芝全自動洗濯機「ザブーン」の製作チームの一員として、かのばさまの子孫が洗濯機製造にたずさわり、多くの主婦たちの家事の負担軽減に大きな貢献を果たしたとか果たさなかったとか作り話であるとかは言うまでもありません。
めでたし めでたし

あなたの今やっていることがあなたが最優先にしている選択なのです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

まず、自分で考える

どうすれば課題をクリアできるかとの質問ですが・・・
やまさんはどのようにすれば自分は動けるのか、ご自身の中で見つけ出そうとしておられますか?
見つからないから、質問してこられたと思いますが。

私自身の事で答えさせていただくと。
私は、午後より午前の方が時間の流れ的に緩やかだと感じています。
ですので午前中にほとんどの用事を済ませ、午後からは来客を迎えるという、一日のパターンを作っております。

私は毎朝5時半に起きます。
そうすると、正午まで6時間半ありますので、なかなか効率的です。

やまさんは、私の回答を見てどう感じられましたか?
「やってみようかな」と思われるかも知れませんし、「そんな早起きできない」と思われたかもしれません。
また、一応参考にしておくか、と考えられたかもしれません。

私が申したいのは、とりあえず一度自分の中で考えてみる。
その上で、人からのアドバイスを求めれば、効率的な答えがご自身の中で見つかりやすいと、私は思います。
要するに「自分は、~しようと考えていますがいかがでしょうか?」という聞き方です。

まずは、ご自身で考える習慣を身につけて下さい。
そこに解決の糸口があると、少なくとも私は、そう思います。

{{count}}
有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

海老原 学善様
お返事ありがとうございます。
たしかに、どうすればいいですか?といううかがい方は我ながら他人任せかつ自分のためにならない質問の仕方だったと感じました。
また、考えることをやめていたようにも思います。体が動かないわけないのに、体が動かないと言い訳を作って逃避していたのだと思います。
まずは、考えて自分なりの答えを出すところから始めてみます。
貴重なご意見、ありがとうございました!

丹下 覚元様
お返事ありがとうございます。
ユーモアかつ分かりやすいたとえで思わずクスッと笑ってしまいました。
したいことを選択するようにできている。やりたくないを言い訳にしてやらないことを選択している。改めて書いてみれば当たり前すぎることなのですが、どうにもその辺りの意識が抜け落ちていたように思います。
したいことを選択するようにできているのなら、無意識に選択すれば当然「やりたくないことをやらない」選択をしてしまうと思います。
どんな行動も自分が選択しているんだということを意識して行動するようにしてみようと思います。
ありがとうございました!

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ