ぶち壊す
ポジティブなら誰もがよろこぶ。
お坊さんもよろこぶ。
嘘をついて誰かがよろこぶ。でも虚しくない。私は虚しくない。子どもの頃からだから虚しくない。
不登校になって親に言われたこと「働かざる者食うべからず」「お前と食うメシはまずい」土下座してご飯を食べさせてもらったことありますか?
ご飯は腐ると白い泡が出て糸を引く。そんなご飯を食べたことありますか?
「お前が生きていても得なことはひとつもない」そんなん言われたことありますか?
真夏に祖母の家に行っても、喉がカラカラに渇いても水さえ飲ませてもらえなかった。そんな経験ありますか?
トイレも入らせてもらえなかった経験ありますか?
私はあります。全部あります。
「かわいそう」と思われますか?
簡単に思ってほしくないし、分かってほしくもない。
私なんか死ねばいい
苦しんで苦しんでもがいて死ねばいい
私には似合う
苦しんで苦しんでもがいて死ぬのが似合う
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
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人間は基本的には独り占めしたい生き物です。煩悩により我執が起こるからです。
私が一番喜びたい、私だけが楽しみたいというように喜びや楽しみを独り占めしようとします。
ところがそれだけでなく、人間は苦しみや悲しみさえも独り占めしようとします。
私ほど苦しんだものはいない。
私の辛さが分かってたまるか。
誰にも私の苦しみはわかるはずない。
というように。楽だけでなく苦さえも独占しようとします。それが本当の願いならばそれで満足なのです。
ところが人間はこの現実に苦悩するのです。悩み苦しむということがあるのです。
満たされないのです。私の独占を求めていたつもりでそれが得られても何か満足しない。だから今度はこれ、次はあれと留まるところをしらず求めるけれど満たされず悩み苦しみます。
その人間がどこで満たされるかと言うと、実は独占が破られて誰かと共にシェアできることです。表面では独占したいと思っていながら底の底では自分でも気づかずに、シェアしたい、分かち合いたいと願っているのです。
その時にも煩悩は邪魔しようとします。
「私の気持ちは誰にも分からない。私と同じ体験をした人、同じ立場の人でないと分からない。」
というように体験主義に陥ります。しかし実際はもっと単純なのです。
一緒に食事をして「美味しいね」と言えば「美味しいね」と返ってくる。そこには確かにシェアがあるのです。
二人が感じている「美味しさ」は一緒ではないでしょう。相手が「どう美味しく感じているか」も二人には分かりません。それでもそこにはシェアがある。
ところがこれが同じメニューでなくハンバーグとエビフライならどうでしょう。それでも本当はシェアは可能です。それぞれが美味しいと感じていることを認め合えればシェアは成り立つのです。
それなのに「ハンバーグの方が高いから美味しい」とか「エビフライの方が手がかかっているから美味しい」とか、そこに価値観というモノサシを持ち込むとシェアできないという錯覚に陥ってしまうのです。
あなたも本当はシェアしたいのではないですか?ここに書き込んでいるのがその表れではないですか?
本当に分かってほしくないのなら自分の世界で独占出来たらそれで満足のはずです。
私たちは他人の気持ちは分からない。でも分からなくてもシェアはできるのです。その時にシェアしたいのは嘘か誠か?です。
過去は過ぎ去りもう無い
「私」(自分)とは、色・受・想・行・識という五つの現象の集まり、五蘊(ごうん)が生み出すものです。
五つの現象は常に更新され、新しく入れ代わっています。
過去の「私」と今の「私」は別のものです。
過去の呪縛から「私」を解き放ちましょう。
過去の「私」は別人。
別人のために今の「私」が苦しむ必要はありません。
まずは、今、衣食住を確保できていますか?
身の安全は確保できていますか?
今の1秒が平安ですか?
質問者からのお礼
大丈夫です
ありがとうございます
吉武 様
シェアしたら何が残るのでしょう。
優しい言葉でしょうか?
激励の言葉でしょうか?
最近、どんな言葉もひびきません。