無著、世親、安慧の三相に対する見解の差異について
唯識にも様々な説がある事を知って以来、大変混乱しているところです。
まず二取の真偽を基準するところで有相・無相唯識説に分かれ、そこから更に形象の有無についての解釈で形象真実・虚偽説に分かれる事、
また中観派のシャーンタラクシタは形象の有無に拘る双方の形象説を否定した、という事までは理解出来ました。
しかし『摂論』と『弁中辺論』にみられる無著と世親の三相に対する解釈の差異や、安慧も世親とは三相に対して微妙に解釈が違っている事を知って頭が痛くなってきました・・・。
もし宜しければ私のような凡夫に解説して頂いても構いませんでしょうか?
皆様のお知恵を貸して頂けるのであれば誠に幸いであります。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「転識得智」に関する主体・変化(転化)・根拠について
akbcde様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
唯識思想においての有相・無相唯識説、三性説を巡る問題、二分・分別の問題においては、非常に難しい解釈の相違が色々とございます。
ただ、ここでその差異について詳しく述べていくとなると、かなり煩雑となるため、理解へと向けた拙生なりの要点を少しだけ示させて頂いておきます。
上記の問題を理解していくためには、
「真理を知る(認識する)ということは、一体どういうこと(状態)であるのか?」
「顕れ(客観)への認識と真理を認識する主観の側の構造は、どのようになっているのか?」
ということから、
「悟るということ(認識)は、一体どういったこと(状態)になるのか?」
「悟った者の認識と悟った者における客観(認識への顕れ)の構造がどうなっているのか?」
ということについての議論を扱っていると考えて、その認識している顕れと認識主体のあり方における様々な相違であると理解し、「悟り」という事態が、どのようなもの(状態)であるのかを解明することで、正しい「悟り」へと向かうためのありようを示そうとしているのであります。
要するに、如来・覚者による知覚・認識している構造・世界のありようと、私たち凡夫が知覚・認識している構造・世界のありようの差異を明確に浮き彫りにすることで、凡夫のあり方をどのように仏道修行を通じて、如来・覚者のあり方へと近づけていけるようにするべきであるのか、ということになります。
また、それはつまり、悟る前の凡夫における心(識)と、悟った者、如来・覚者における心(識)、そして、その主体、変化(転化)、根拠について明らかにしようとすることになります。
特には、「転識得智」に関する主体・変化(転化)・根拠というものとなります。
あとは、そこで「空性」をどう捉えて理解するのか、というところももちろん大切となります。
更には、如来蔵思想・仏性思想の立場との差異も出て参りますが、認識する顕れも、認識している主体も、実体としての成立ではないとして、「悟り」という事態をどう説明していくべきであるのかというところが、やはり色々と説明するにも限界があって、非常に難しいものであるのは、仕方がないと存じております。
是非、碩学の関連する論考から、更に理解を進めて下さいませ。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答有難う御座います。
凡夫故に至らない点も多いですが、これからも精進させて頂きます。