唯識とゲルク派の結合
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/1998/104.html
このサイトでは「チャンドラキールティは唯識学派の独自性を失わせる形で、阿頼耶識を便宜的に認めた」
と解説されてありますが、果たしてどういう事でしょうか。
そもそも阿頼耶識は空なる物でありますから、最初から中観思想に抵触しない筈だと思うのですが…。
中観帰謬論証派が阿頼耶識を受け入れられない理由とは何なのでしょうか?
世俗に於いて自相を認めるからでしょうか…。
上記のサイトでは「チャンドラキールティは阿頼耶識を便宜的に認めた」とありますが、
世俗に於いて自相を認めない帰謬論証派にとって、唯識説はどの様な形で認められる物なのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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便宜的・方便的なものとして
akbcde様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「チャンドラキールティの中観思想」(岸根敏幸先生)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/1998/104.html
4.唯識思想批判
(2)チャンドラキールティは,アーラヤ識の想定を不要と主張するが,その存在を便宜的に認める.ただし,それは真実としてアーラヤ識を説く唯識学派の主張とは異なり,唯識学派の独自性を失わせた形でである.
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チャンドラキールティ大師・入中論(6-43)・入中論自註(73.F13)を参考に致しますと、確かに、便宜的に認められているように存じます。
但し、それは深遠なる真実義である「空性」への理解のための、まさに「便宜的なもの」としてでございます。
自註の中では、「物事一切の本質に導入するために他ならない空性をアーラヤ識という言葉で教え示したと理解すべきである。」とも解説なされており、チャンドラキールティ大師は、アラーヤ識を唯識派の捉えているようなものとしてではなく、「空性」を示唆するものとして独自の解釈を阿頼耶識に与えていると考えることができます。
また、入中論(6-44)において、「「アーラヤはある。プドガラは存在する。ただこれら蘊のみが有る」というこの教えは、以上のような非常に甚深な意義が分からない者への教え。」とありますように、方便として説かれている教えであるとして、阿頼耶識も一応は認めていると考えるのが妥当であるかと存じます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
成る程、便宜を使い分ける事で悟りへの道を示される訳ですね。
凄く納得出来ました。
回答して下さって有難う御座います。