hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

善い行いをしたいのに…

回答数回答 2
有り難し有り難し 44

過去の自分の行動を反省し、今は善い行いをすることを心がけている最中です。

私は現在一児の母で、働いてはいません。
世のため人のために何かをしたいと思っても、日々の生活のなかではできることが限られているような気がします。
子連れで買い物に出かけ、そのなかで善い行いをしようとしても例えばエレベーターを譲ろうとしても、逆にこちらが譲られてしまったり、電車の中でも同じです。
人に優しくしたい、人の助けになることをしたいのに、逆にこちらが優しくされて助けられてばかりで、それは大変嬉しいしありがたいことなのですが、じゃあ私にできることはなんなのだろうか?と考えてしまいます。

善い行いについて、教えていただけないでしょうか?
どうかよろしくお願い致します。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

随喜(ずいき)

他人の善行を見て喜ぶ…それは自分がその善行をするのと同じだけ善いことだと仏教では言われます。これを随喜(ずいき)すると言います。

エレベーターや電車で譲られたら、快く相手の善行を受け取ってあげましょう。そして相手の善行を喜んであげましょう。それもまた、自分が譲るのと同じだけの善行です。

残念ながら今の日本人はここのトコが下手な人が多いです。「私はまだ年寄りじゃない!」とか言って。でも本当はそうやって我を張って人の善意を無碍にしてしまうのは、迷いや苦を増やすだけの道です。

私は日本をもっと親切のしやすい所にしたいと思います。気軽に親切をできる所に。あなたも、皆さんもそう思いませんか?そのためには、まず自分が人の親切を快く受け取り、喜ぶことです。

もちろんとりあえずは今まで通り自分が親切をするつもりでいいんです。でも不意に親切にしてもらったなら、それを断る理由は何もありません。

{{count}}
有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouTuber「仏教・お寺ch 大慈」。 【現代日本仏教最大の課題のひとつはコミュニケーション不足】をミッションに10年以上、インターネット上で情報発信をしています。 YouTubeでは仏教の教えや読経だけでなく、お寺の真相やお坊さんの生活が分かる動画を配信しています。(リンクは↓のURL)

千手観音行

千手観音は手に様々なものを持っています。
相手に応じて必要なものを提供します。
渇く者には水を。
寒きものには火を。
真理を求めるものには法を。
相手の求めに応じて欲するところを提供する生きた無我の様子です。
今や日本韓国は仲ワロシですが、私は韓国ドラマの「チャングムの誓い」にドはまりしました。結構面白いですよ。
その中に、主人公のチャングムに師匠が「水を持ってきなさい」と命ずるシーンがあります。水を持ってきましたがダメ出しを何度も受けます。最後の最後で…、実は…、ああ、言っちゃっていいのかな…、どうしようかな…以下🔺から🔺までネタバレ注意ですが、
🔺
何故、水を持って来いでただ水を持ってきただけのチャングムがそれでは駄目だったのかという理由は、相手の求めに応じて提供しなければいけないということだったのです。
喉が渇くようでしたら、ぬるめの白湯を、寒いようであれば温かい白湯を、熱いようであれば冷水を、そこにもう一声、そこに愛があるか、そこに相手に対する気遣い、配慮があるかどうか。もっと深い意味も見いだされましょうが、それは本編を観てのお楽しみに。🔺
たとえばここのhasunohaのページもそれを象徴してるのです。相手の求めに応じて、千手の観音菩薩の権化の坊さんが救い・助け・フォロー・同調・叱咤・激励の慈悲の手を垂れているという側面があります。

これは坊さんでなくてもできることです。
どんな職業もみな共通しているのです。
ご飯はそこにただライスとして存在しているだけ。
そのまま食べたい人はまんま🍚で。
カレーな気分の人にはカレーで。
ふりかけ気分な人にはふりかけで。
オムな気分な人はオムで。
チャーな気分な人にはチャー(炒)で。
アナンダはご高齢のお釈迦様にお団子を作りました。お葬儀でお団子をお供えする習慣があるのはそういう慈悲の心、活きた無我の心の現われです。
そういう心を持つことであなたは自然に誰にでも生きた慈悲、活きた無我の千手観音の行を提供することができましょう。
モノを形作るには、ただその形を作ることよりも、根底、ベース、精神、真心、ソウル、タマシイこそが大切です。あなたが高めるべきところはスキルではありません。自身の精神性、内面、自分の心を見つめなおすことからではないでしょうか。これも私の慈悲の🍢つんつんです。ナイスキャッチ頂けますように。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ