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出会い

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有り難し有り難し 22

主人の死別を経験しました。

葬儀の時にお世話になった御住職様が色々フォローしてくださり、泣いてる私を主人は望まない~と考えられるようになりました。

仕事も始め、たくさんの知り合いや友達を持つことができてます。

が、これから先のパートナーとなると上手くいきません。
婚活サイト・仕事先の人・遊び仲間~と好きになったりお付き合いすると周りからは必ず「だめんず」と見られがちな方々。寂しさからか心の隙間に入ってきてもらうとコロっと寄っていってしまっています。結果的には今現在正式にお付き合いしてる方はいません。

自分を愛してくれる人は現れるのか…。

この先に不安を感じます。

助言お願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

貰うより与えるのもよいかと

何かの歌詞じゃないですが、本当です。
愛されるよりも愛せる人となった方がイイのです。
世の中みんな欲しがる人ばかりです。
だからこそ、提供できる人になってみてください。
ネコを飼っている人が死ぬ間際にその猫に愛しているよ愛しているよと言いながらその猫を送りました。
その人はその愛を送るエネルギーで愛にあふれていきました。
あなたはご主人をもっと愛するべきです。
その結果あなたが愛にあふれていきます。
供養とはそういう面があるのです。
あなたが死んだご主人を死なせたままにしとるからイカンのです。
死んだって愛すべきなのです。
クラシックやロックやジャズのミュージシャンは死んでも愛されています。
それだけ人を救うサウンドを追求してちゃんとしたものを残したからです。
あなたがひとから愛されるうえで今足りないもの。
それはあなたが無きご主人を愛する心です。
いつか意味が分かると思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

本物を求めるなら何もしない

前回の質問も拝読いたしました。
まずは、ご主人のお冥福をお祈り申し上げます。

かばさんは、ご主人と死別し5年になられます。
そろそろ、新しいパートナーを求められても、それは自然な事です。

ただ、ロクな男性に出会わないとの事。
悲しくもあり、なにか八方ふさがりの感もありますね。
でも、投げやりになってはいけません。

あなたは愛が欲しいのです。
だから、あなたも相手に愛を与える。

一見、常識的な形に見えますが、視点を変えると、気持ちの押し付けにもなりかねません。

愛されたいから、愛の押し売りをする。
しかし、人それぞれ愛の価値観は違います。

あなたはそれでも、それでも寂しさが手伝い与えようとする。
ご自身の体や、貴重な時間を削り、黙々と。

時には自分らしくない、自分も演じ。
相手の発言や行動に一喜一憂しながら。

それでも、それで楽しければそれでいいのですよ。
しかし、私には楽しそうに感じません。

「これも運命だな。」
「こんな年だし、妥協やあきらめも受け入れなければならないんだ」と。

なぜか。
それは、漠然とした愛を求めているから。

自分でもよく理解できていない愛を求めるから、相手に合わせるしかない。
そりゃあ相手には都合のいい女です。

厳しい表現かも知れませんが、あなたがダメンズを作り出してしまっているのです。

愛を求めるからこそ、愛を与えてやらない。
それが自分らしく生き、相手も自分らしく関わりやすい道ではないのでしょうか。

何もしないのが一番です。
自分らしく生きましょうよ。

時が、時が満ち・・
あなたにパートナーを迎え入れる状態が備わったその時、自然と求める人との関わりが生まれます。

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有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

海老原 学善様

回答ありがとうございました。

その時が来るまで「自分らしく」過ごしたいと思います。

丹下 覚元 様

回答ありがとうございました。

愛する心をもてるよう、供養を疎かにしないようにしたいと思います。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ