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人の為に

回答数回答 2
有り難し有り難し 17

こんにちは!

自分では「誰かの為になる」と思ってした言動でも、相手にとって迷惑やありがた迷惑になることがあります。

そういう時、「今の相手には必要なかったかもしれない」とか「自分が出過ぎた真似をしたのだ」とか「自分の心が偽善だったかもしれない」とか「所詮、自分の為にしたことかもしれない」とか考える。

「人の評価を気にするな」という考え方もあるけれど、自分がしていることが人の為になっているのかどうか、前例もあるから自信がなくなる。

「必要と言われるまで待ってみよう」と考えたりしてるうちに次の言動ができなくなる。

そして、自信がなくて言動しないでいると、今度は「あの人は動かない」とか「気が利かない」とか「冷たい」とか言われてしまう。

何事もやってみなければわからないと奮起して、「誰かの為になる」と信じて言動してみる。時々はうまくいくけど、時々は相手にとって迷惑に………

そういう経験を積んでいくと、自分が何をしたらよいのかわからなくなることがあります。
もっと人に寄り添える人格であればよかったのに。そういう人格を目指してみるけれど、自分も他人も、人の心は難しい。

これを修行と思って日々頑張るしかないことなのか、それとも足りない何かがあってそのコツを掴めばよいことなのか。
どう考えればよいかお教えください。

抽象的な内容ですみません。
でも、こういう思考のループを断ち切る答えをいただけたらと思い、質問してみました。
よろしくお願いします!


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

成功だけ、で歩むのは非常に難しい。

こんばんは。言葉って面倒ですよね。「理屈と膏薬は何にでもつく」とばかりに。
「人の評価は気にするな」。この言葉は、「自分で責任を取るのだ、結果は自分で受け取るのだ」という前提がある事柄について適用される言葉です。「誰かに働きかける」場面において、使う言葉じゃないと思いますよ。
「必要と言われるまで待つ」にしても、「必要だったら遠慮なく言ってね」を宣言してあるか否かによって、トータルの評価は変わりますよね。つまり、「文脈の中にあって、言葉は価値を持つ」のです。
ですからね、「時には成功、時には失敗」で良いのだと思いますよ。だから「ごめんなさい」という言葉もある。他人になることはできないのですから、私たちはお互い、「多分こうなんじゃないか」という推測で動いています。未来は未定なのですから、成功も失敗も未定。「どっちに転ぶか分からないけれど、良さそう」な選択をし続けているのだと思います。
学校のテストには「正解」がありますよ。むしろ、正解というものがあるのは学校くらいのものかも知れません。
お釈迦様は多分、「この世のありよう」をじっと観察し、できる限りありのままにその姿を捉えたのでしょうね。だから無理がない。自分の思惑を差し挟まずに、この世の姿を見て、それを述べたのだと思います。お悟りに繋がる8つの正しい道、その最初には「正見」があげられています。
 追記
 「お礼」欄の書き込み、ありがとうございます。仰りたいのは、「耳に痛い言葉でも、発しなければならないことがある」という事ですね。それはその通りだと思います。しかし…。
 その上でなお、「相手が受け取りやすいか・受け取れるか」は吟味しなければならないと思いますよ。耳にいたい言葉を伝えるときほど、「相手が受け取れる状況を作るべし」と言いましょうか。「聞く耳を持っている」状態でなければ、「良薬(往々にして耳にいたい言葉)」は届きませんよ。難しいことですが…。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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釈迦に説法でしょうか

釈迦に説法しているみたいです。お許しください。
菩提心をお持ちになり、実践していることは、素晴らしことです。しかし、仏教者から見ますと、今回の質問は愚痴に聞こえます。愚痴とは、人間が克服すべき三毒の煩悩、「貪瞋痴(とんじんち)」の一つです。この三つは互いに絡み合いながら、人間の心を揺さぶります。「貪」はむさぼり、「瞋」は怒り、「痴」は無知を言います。今回の質問は正に、心の三毒による心の葛藤について述べられていると感じました。
初期仏教の経典である「スッタニパータ」(中村元訳 岩波文庫「ブッダのことばーーースッタ二パータ」参照)の第四八つの詩句の章 三、悪意についての八つ詩句に「欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができだろうか。彼は自ら完全であると思いなしている。彼は知るにまかせて語るであろう」があります。良いことをしたいという欲にひかれ、自分が行っていることに、とらわれ、思うようにいかないと怒りが芽生え、愚痴となって嘆きを語っていると感じます。
「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」(名越康文著 PHP新書)に、『「瞋」は怒りであると、気づくことにより怒りの八割を払うことができると』があり、対応策が記述されていますので講読をお薦めいたします。どうか因縁を断ち切る「心の基準点」作る「行」にいそしみ、仏性に磨きをかけられ、更なる菩提心の向上をされんことを祈願いたします。

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有り難し
おきもち

清水道心
サラリーマンでしたが、第二の人生は、在家から出家得度し僧侶に転進。現在、ブ...
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質問者からのお礼

今回の質問にご回答いただいたみなさま、ありがとうございます‼

佐藤良文 様

お礼が遅くなりすみません!

私の質問への回答は『「時には成功、時には失敗」で良いのだと思いますよ。だから「ごめんなさい」という言葉もある。』というところなのかなと感じました。

それにプラスして「言葉でごまかさずに、正見を磨け」ということでしょうか…。

『「必要だったら遠慮なく言ってね」を宣言してあるか』と「ごめんなさい」のところで、自分が肝心な言葉を発してないんだと気づきました。
気づきを与えていただき、感謝しております‼

1点、『「人の評価は気にするな」は、~「誰かに働きかける」場面において、使う言葉じゃない』のところは、私はそう言い切れないと思いました。

相手にわかってもらえなくても、迷惑がられても、相手のために為すしかない言動も時としてあると思うからです。もちろん、わかってもらったり迷惑がられない方法が示せればベストでしょうが、「方法がわからないから何もしない」では済まないことも、あると思います。

生意気を言ってすみません。

清水 道心 様

「菩提心」がわからず調べてみました。私が読んだものの中では「悟りを求める心」とありましたが、そんな大それた気持ちで今回の質問をしたつもりはありませんでした。とても恐縮しております。申し訳ありません。

また「今回の質問は愚痴に聞こえます」に、自分では思ってもみないことだったのでびっくりしました。しかし、人からそう見られるということはその通りなのだなと思います。

恥ずかしながら、日頃から愚痴を言うことで発散することがよくあります。自分では愚痴のつもりでは言ってない言葉にも、日頃の行いが滲んでいるのかもしれません。以後、気を付けたいと思います。

怒りについて、自分ではその段階は過ぎたと思っていました。「怒るのは自分勝手な行為だ。自分が(事物・人・現象などの)本質をもっと勉強すべきなのである」と。でも、とても難しくて、時々途方に暮れます。途方に暮れている時点で、甘いのかもしれません。「そんな暇があったら日々精進」なのでしょう。

「貪瞋痴(とんじんち)」や「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」を勉強してみます。

色々な気づきをありがとうございました‼

佐藤 良文 様

追記ありがとうございます‼

「相手が受け取れる状況を作る」ことができるよう努めたいし願いますが、その力が自分にはないとわかっていても、為すしかない時もあると思います。

ひとつには、お釈迦様のように観察で本質を理解された方と違って、私などは事物・人・現象にぶつかってみてやっと一片を知れるかも、ぐらいの有り様です。
「自分にはその力がない」と引っ込むだけでは、いつまでも本質の理解に近づけない。

…書いていて思いましたが、だからこそ、自分に関わる人々に感謝なのでしょうか。
ここで愚痴ってないで、自分の至らなさを噛みしめつつ、これからも心や思考の修行をしていきたいと思います。

ありがとうございました‼

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