恐怖心
昨夜、脳梗塞になり、今はもう退院して、平穏に暮らしていますが。
後遺症が残り、左手は、動かなくなってしまい、今リハビリ中です。
どうしてこんな事になってしまったのか、両親が頼りにしているお坊さんに相談したら、8年前に私は双子の一人を死産してしまった事があります。
その生まれて来れなかった赤ちゃんが、自分だけ生まれ来れなくて、寂しいから母親を呼んでいてこうなったと言われました。
私に痛い目に遭わせてやろうと、祟りみたいな事を言われたのです。
入域中に、その事を聞かされてから、毎日怖くてたまりません。次はいつ呼ばれるのとか色々考えてしまって。
これから、どういう心持ちで生きていけば、良いのかわからなくて怖いのです。
ちなみに旦那さんは全く信じていません。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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正見(しょうけん)―事実を事実として見る(受け入れる)勇気
ようちゃん様ご相談拝読しました。お見舞い申し上げます。
まず、失礼ながら申し上げますがそのご両親が頼りにしているお坊さんがおっしゃることはめちゃくちゃなものです。けして取り合わないでください。そしてもう近づかないでください。離れてください。言われたことは真実ではありません。
しかし、おそらくそれだけではようちゃん様は納得できないでしょう。
では、なぜ私が?どうしてこうなった?との思いが頭を巡ることと思います。実はその自分の納得を求める心こそがその怪しいお坊さんに付け込まれる要因なのです。
私たち人間は「わからないものをわからないままにしておけない弱さ」をもっています。ハッキリしないと気が済まないのです。だから原因を求める。
たしかに仏教的に言っても全ての物事に原因はあります。しかしそれは人知ではけして全てを見通せません。
このたびのことでしたら、食生活や生活習慣、身体が元々もっていた遺伝的要素などなどが複合的要因なのでしょう。何か一つコレという原因があるわけではない。
そこにつけこむのが悪徳な輩です。彼らはハッキリとコレと言い切ってくれます。そしてこうしたら救われると。さらにはそれでも救われないのなら信心が足りないと。
それは真実ではありません。
真実は「私の納得」の中にではなく、「私の納得を超えたところ」にあるのです。
人間は「本当のこと(真実)」がわからないと、本当ではないことを本当にしてしまいます。
だからこそ仏教の真実の智慧の目‐正見(しょうけん)が必要なのです。
赤ちゃんはけしてようちゃん様を恨んでなどいません。寂しくて呼んでなどいません。
赤ちゃん(亡き人)をそういう存在にしてしまうのは赤ちゃん自身ではなく、生きている私たちです。
亡き人が迷っているのでなく、生きている人が自分たちの都合で亡き人を迷わせているのです。本当は迷ってなどいないのに、自分の都合に合うからと迷っているように考えたくなる弱い心があるのです。
仏教で養われる目を端的に申せば、「事実を事実として受け入れる勇気」です。
どうかそのお坊さんではなく、お医者様の言う事を聞いて回復・リハビリにつとめてください。
質問者からのお礼
お忙しい中、こんなに早く回答してくださって本当にありがとうございます!
死産で生まれて来れなかった子の為に、毎月主人がお寺に行ってお経を唱えています。
お坊さんに言われた事を主人は信じていませんが。私たちの子が、そんな事するはずがないと。
入院中の一月に祟りみたいな事を聞かされてから、今日までずっと恐怖でたまりませんでした。ですが、今回相談して回答をいただき、だんだんと恐怖心はなくなっていくような気がします。
左手は全く動かなくなってしまったので、家族に助けられて生活しています。家族への、感謝を忘れず、これからも大切にしていきます。
どうしてこうなったかは、主治医が判断した事が全てだと思って、リハビリを頑張ります。
本当にありがとうございました。だいぶ心が軽くなりました。
一時は死産してしまった子に呼ばれたのに、行ってあげられなかったから、生きていたら、いけないんじゃないかとか、次はいつ呼ばれるのかなどずっと考えて頭から離れませんでした。
でも、今回相談していただき、前より前向きになれそうです。
本当にありがとうございました。