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一人が耐えられないときはどうしたらいいですか

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有り難し有り難し 13

こんにちは、よろしくお願いいたします。

私には大好きな人がいます。
その人は私にとって特別で大事な存在です。

その人とは一緒に暮らしてはいないけど、週に何度か泊まりで会いに行きます。

でも時間というものは止まってはくれません。
彼にも一人の時間やお仕事があります。
一時離れなければならないのです。

それが私には耐えられないほど苦痛であり寂しいのです。

彼と離れている時間、どのように過ごせば良いのか分からないのです。

もういっそ、彼の身体の一部になりたいとまで思ってしまいます。
きっとこれを世間一般では、「ワガママ」と言うのでしょうが、私は毎日、常に彼と一緒に居たいのです。

このような苦しみから救ってくださるような温かい有難いお言葉を頂戴したいです。
よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

寂しいという事を本当に肯定してみる

寂しいでしょう、寂しいでしょうね。
別れた後の一人は本当に切ないものですね。
うん、寂しいんだ今の私。と素直になってみましょう。
会いたい、会えない、じゃ、どうしよう。トコトン自分がどうす「べき」かを追求してみましょう。
どうすればいいか、と思いの中で悩んでなにもしないのではなく、行動しましょう。
彼を求め続けて苦しみ続けようか、それとも新しい生き方を選択するかだけでも決めましょう。
どんなに大失恋した人でも不思議と新しい出会いに恵まれるとそこでおさまるもの。世間の人たちをみてください。ほぼ半数以上の人が、今お付き合いしている人との前にも「大失恋」をされてきた方々であっても、ヘッチャラなのです。次の出逢いさえあれば。
今の彼氏さんと出会う前には、皆、前の別れた彼氏さんに❝モエて❞いたのです。
ゼッタイにこの人と結婚する!一生添い遂げるッ!っ…と思っても別れちゃっていますねぇ。(゚д゚)!
この思いは永遠だって思っても愛を結婚で誓っても別れちゃっています。不思議ですねぇ、人間て。
時々思い返すことはあっても、新しい出会いがあれば、そこで新しい恋の炎がモエるのです。
だからこそそこで大切なことがあります。
人が求めているのは、異性ではない、ということです。
人間は、恋愛を通して「何を求めているのか」を知るべきです。
ただ、好き、スキ(♡<♡)♡だけ、ですと、残念ながら自分を見失い、ポッカリ穴が開きます。相手に求めるだけで自分が空だからです。
一生ものの恋愛ならばこそ冷静な自己分析が必要です。
自分に質問してみましょう。
「私は、パートナーとの恋愛を通して、何を求めているのか?」
「安心?自分を肯定してくれること?自分を理解してくれること?居てくれるだけでイイ?刺激?過去の悲しいことを埋めてくれるやさしさ?愛?学び?父性?共感?」
誰もが色々な心の渇きを相手に求めるものです。
それで良いのです。だから人は結婚もするのです。
異性、パートナーとなり得る人にはその力があります。
ですが、もっとも大切な事は「相手に求める」ことよりも「自分も愛を生み出すこと」「自らの安心」です。
彼との間で育ったあなた自身の「愛のエネルギー」はあなたの中で大きくなっています。
どうかその力を自他を幸せにする力にしてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

親身なご意見ありがとうございました。

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