助けるべき?
先日、デパート座っていると、ホームレスっぽい人から、百円くださいと言われました。
とっさに、無いと言ってしまいましたが、この様な場合、少しでも、お金をあげて、助けてあげるべきだったのでしょうか?
万人は平等なりという、教えがあると思いますが、やはり身なりが汚いと、避けてしまいませんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
こんにちは。
あなたが「この人を助けたい」というような真の慈悲心から布施をするのであれば、あなたは徳を積むことになるでしょう。例えそのホームレスが偽物であったとしても、その人が人を騙した業を背負うだけです。(しかしそこまでして生きなければならなかった事情を鑑み、仏はやはりお許しになるのでしょう)
私も経験があるのですが、今ホームレスだとしてもかつては娑婆で立派な立場の方だったかもしれません。それは見た目だけではなかなか判断できない事柄です。
昔話になりますが、かつて悲田院にて光明皇后の前に姿を現した仏は、全身膿だらけのそれは酷い姿で普通の人なら避けるようなお姿で現れたとか。
身なりだけで判断していると、対象の内面まで観察することはできません。
真実を見極める目を養う修行(訓練)としていきませんか。
「しなかった」後悔は「した」後悔より厄介です
私たちは、何かにつけ過去の自分の言動について後悔してしまうものです。
その行為が善行為であると頭で分かっていても、その瞬間の自分の都合や周囲の様子で、ついしそびれることもよくあります。
間違ったことを「した」後悔は、「よし、次はしないぞ」と区切りをつけやすいものですが、そうすべきと分かっていて「しなかった」後悔は、相手がある場合はなおさら、「ああ、ああすれば良かった」といつまでも区切りがつかないものです。
「しなかった」後悔で自分を苦しめないためにも、それが多少とも相手を助けることになると分かっていれば、勇気を出してするべきではないでしょうか。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
渡部仁海さま
「真実を見極める目を養う」
できれば、すばらしいですね。精進して行きたいと思います。
ただ、
「かつては娑婆で立派な立場の方だったかも」
の、立派と言う言葉が、何をもって立派と言われているのか、少々引っ掛かりましたが。。。
百目鬼洋一さま
「「しなかった」後悔は「した」後悔より厄介」
おっしゃるとおりだと思いました。
多少とも相手を助けることになると分かっていれば、勇気を出して助けようと思います。