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幼稚園の先生

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有り難し有り難し 6

こんにちは。
突然ですが、子どもの幼稚園の先生に片想いのような恋心を抱いてしまっている気がして、悩んでます。
しかも、女性なので同性の先生なのです。

私は、昔から私に関わってなおかつ合うなぁと思う先生なり大人に強い憧れのような、恋心のようなものをもつ傾向があるので、今回の気持ちが果たして恋心なのか自分でわからないです。

それに、自分は気持ち悪いと思ってしまうし、誰にも相談できないので、今回ご相談させていただきました。

しかし、恋愛対象は男性ですし、その先生とお話できれば嬉しいなという事を主に思っていて、もちろん連絡先を交換したいなど、それ以上の事はのぞんでいないのです。

担任の先生なので、お話する機会はこれからも多いのかなとは思っています。

この、少し苦しいモヤモヤした気持ちをどのように鎮めたら良いのかわからず、ご相談させていただきました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

元々どうだったのか

元々はその人に対して、何の求めも無かった。
自分のものでもなかった。
人間いくら人を恋すれど、欲すれど、愛すれど、自分のものにもならない。
付き合っても、結婚したとしても、結婚したあなたのダンナとて自分モノ??イナ否。
子供とて、自分のものにもならヌ、相手というものは他存在なのDA。
一生ハコの中一緒でスメド暮ラセド自分ではNAI!ということをガッツリ悟る事が人生の一番大切なことです。
どんなに魅力的な人でも、その人はその人であって、あなたではニャイのです。
心惹かれど、それを見ている自分が!あなたが!自分の人生のリアル主体!リアルあい様です。相手をアイ化する、ワタクシ化する、ワタクシへひきよせ化、欲しがり化するから、もともと天然フリーであった事実がワタクシナイズドされ捻じ曲げられる。
ワタシの一部化がおこなわれるのです。
でも、どこまでいっても他人は自分ではない。
それを見ている自分が、人生の主人公であるから、せめて、映った事、聴いた事などを、心の中で楽しむ位は良いが、相手の本体は他人様の主人公なので自分のミノウエに望んではいけない。相手の存在は、その人自身のミノウエの事であるから。
「もとめ」を起こすから、自分のものになってほしいと思うのです。
世界は、あなたの求めとは、まるで無縁、無関係に存在している姿【苦】なのです。
ここでいう苦は苦しいという意味ではありません。
思い通りにならないという状態を【苦】という文字であらわしているだけです。
たとえば、母親としてわが子がかわいいと思う。
そのわが子とて無理です。
無理矢理芸能界デビューさせようとして、文字通り我が物化、私有化された子供であっても、親のものではない。親のものにはならない。
人生は誰も人を思い通りにはならない。だから、それぞれのI(アイ)なる主体が、それぞれ生きる。それぞれ独自のアイ(わたし)、それぞれが自分のアイ(わたし)を生きる。
本当に愛するということは、私のものにしないことです。
手放して、自由にしてあげて、私から引き離してあげるのが本当の「あい」なのです。
そういう「あい」に目覚めることで、あなたは自分からも、子供からも、好きになった人からも自由になって、さらに深い「あい」である慈悲、レベルアップすることでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!
元々は、考えてみると初めての幼稚園、初めての先生なので何の印象もなく、期待をするわけでもなく、ただ子どもが楽しく通ってくれればと思っていたので、今のような感情は自分でも許せない気がします。

でも、お腹を痛めて産んだ子どもでさえも私のものにならない。

そうですよね、アドバイスいただいた事を考えて少しずつ自分を解放していきたいなと思いました。
本当にありがとうございました。

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