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御魂入れしたご本尊に後から彩色しても宜しいのでしょうか?

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木造の御本尊様を2年前に僧侶様にお願いして御魂入れして頂き仏壇で朝晩お祈りさせて頂いています。

ですが、当初何の知識も無く安さに惹かれて購入した御本尊様ですが、金色に塗装をしてみたいと最近考えるようになりました。

朝晩お祈りさせて頂いているので愛着も思い入れもある御本尊様です。
ですが、もう少し綺麗にしてあげたい(これも自己満足だと思います)という思いもあります。

ご質問ですが、御魂入れして頂いた御本尊様を勝手に後から彩色する事は問題でしょうか?
ご縁があって来て頂いた御本尊様なので買い替え等は検討していません。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

問題ありません。

ご自身が心を込め毎日手を合わせるご本尊様です。魂は入っているので、信心を込め毎日手を合わせれば何の問題もありません。

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大本山總持寺安居ののち、松岩寺副住職となる。テレビ朝日系お坊さんバラエティー番組ぶっちゃけ寺出演経験。著書:最高のお葬式・最高のご供養(ベストブック社)地元紙・業界誌に執筆・投稿・取材等。ファイナンシャルプランナー・終活カウンセラー上級・お墓ディレクター2級などを保有。「どんな供養の悩みも解決出来る僧侶」を目指し気仙沼を中心に活動中 松岩寺公式ページ https://bk3027o.wixsite.com/kesennuma

この心身は何ものにも染まり 染まっても残り物がない

歴史のある仏像はきれいでない方が風格もありますね。
無垢のままを最上とする見方もあります。日本は和の風味で無垢のものが多いですね。

さらに、すすみては、本尊仏を仏とするのではなく、自らの心の中に仏を見い出す行為こそが、自己の本尊仏も、仏壇の本尊をも互いに金色以上の輝きににする、ということであろうと思います。
自らが、無我、無心、無執着、不染汚、不思量なれば、この心身が真金の即身仏となりましょう。
本尊仏を金色に塗られる前に、本当に心の底から合掌、礼拝をされ、身をただし、呼吸をととのえ、あらゆる思いに手を付けずに、数日間、一に5分でも坐ってみてください。
あれこれ沸き起こる思いが、しずまって、無我、無心、無執着なる心の本来の性質を悟る事が出来るでしょう。
そこに至って、はじめて仏像を塗ることができる資質を得たと言えます。
(そこに至れば本尊を塗ろうとも思わなくなるでしょう)

本尊仏とは、人間の無我無心の象徴です。
この自己に参じて究め尽したところの、わたしどもの本来の様子です。
まずは、拝むことから始めてみましょう。
本当に拝むということは、自分が本尊そのものになるということなのです。
「今、一切の過去の事を流し去って、まるで問題がない。心身が何に染まっても、何も残り物がない。これを成仏という。」

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

小黒澤様、丹下様
大変お忙しい所ご回答を頂きましてありがとうございました。
小黒澤様、丹下様の仰る「信心」が大切との事、身に沁みております。実は私は洗礼前でしたがカトリックの信仰歴の方が長いです。

しかし、縁があって仏教に触れ上手くは言えませんが「冷徹なまでの真理(法則?)」を追求しながら、分からない事には「無記」を貫いたお釈迦様の教えに惹かれ仏教に帰依致しました。

当初は御魂を入れて頂いた「御本尊様」に願望をぶつけるだけの祈りでしかありませんでした。ですが毎日大自然の中での日の出と夜の瞑想を通して、また仏壇でのお祈りをしていくうちに、「御本尊様」に対しての祈りでは無く、ただ「もっと広い何か」に対しての日々の感謝への祈りとなっております。
正直御本尊様が仏壇にあっても無くてもどちらでも良い・・・。(お寺様は別です)
祈る場さえあれば、それで良い。大自然に、様々な縁に、内省を促し生かされている喜びに、仏教の幅広い御教えに、「祈る」だけです。

そこで「御本尊様」に対しては・・・何か、あっても無くても、どちらでも良い、祈る場に御本尊が無くても良いのでは?という愚かな心が芽生えたのが正直な所です。
ですので、もう一度御本尊様を手にとって自分で手を入れて(塗る事しか出来ません)、しっかりと「信心」に向き合いたいと思い質問させて頂きました。

本当に為になる法施を頂きましてありがとうございます。
このお礼で気になる点がございましたらドンドンご指摘下さいませ。
本当に感謝申し上げます。

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