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国際協力について

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有り難し有り難し 8

仏教的観点からみた国際協力(NGOなど)について、僧侶の皆様のお考えを教えていただけないでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

四方僧伽

こんにちは。

自分自身は居住地域や国内までしか視野を広げられていません。
目の前の園児やかつての職場で担当していた人たちの対応で手一杯の現状のため
情報提供という形ですいません。

四方僧伽という団体があります。
ここのHPの「可能性としての仏教」というページに熱く書いてあります。
参考になればどうぞ。
http://catuddisa-sangha.org

また、長野であれば松本の浅間温泉 神宮寺さんも作務衣販売などの活動をされていると思います。
http://www.access21.org/index.html

檀家さんや信者さんからの布施を、昔、発展途上と言われた国々に資金や施設を提供に役立ててもらい、その国から感謝状や勲章をもらう。
こんな形でお布施を国際貢献に役立てる考えの宗教者は教団の大小問わず以前からあったように思います。

参考になれば幸いです。

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有り難し
おきもち

hasunohaに出会えた私は幸せ者です。カニとおろし蕎麦と水ようかんが美味しい地方の町のお寺にいます。人混みは苦手、都会のイルミネーションやサイネージはまぶしすぎる。だけど、ここhasunohaでの対話があるから孤独じゃない。ありがとう。
社会福祉士、公認心理師として社会では働いてます。事業や組織を背負うと言えないこともあるけど、仏教を背負うと語る内容も変わります。悩みがなくても話してみたいときは相談ください

もっとレベルアップした❝協力❞を

うどんもちじみもパスタもパンも
ナンも素材はみな小麦
みんな違って皆ウマい
世界の文化の違いは 小麦で創られた最終的な形が異なるというようなもの
美味しいものを作るためなら 小麦同士 力やチエを分かち合うべきです
でも 誰かが傷つく 悲しむ 苦しい思いをするのであれば それは 国際協力 という名のもとに行われる 暴力行為 利害が生ずる行為 ❝非❞ 協力精神です。
ホントの協力とは人類の誰かが、泣きを見るためのものであってはならないからです。
本当に高い理念ならば、自ずから協力するようになるはずなのです。
どこかに、利害や政治、経済が絡むのでどうしても、❝誰かが得する❞協力になってしまう事がある。どんな協力も、そういう利害や政治を除外した❝協力❞であるべきだと感じています。
そもそも協力という事は、個人間であれば、利害は関係なく無私に行われるべきものだからです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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