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断捨離って必要?

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あまりにもたくさんの情報が飛び交う今の世の中に少々嫌気がさし

商売をしている宣伝にも使っていたので、ためらいも少なからずあったのですが、某SNSをやめてみました。

手放す事で久しぶりにゆっくりと自分の時間を使うことができて本来の自分らしさを少し感じる事ができてきているような気がします。

この際、着ない衣類や物なども処分して
必要な人に廻れば一番いいかな?なんて考えているのですが

私は幼少期から何より整理整頓という事が苦手です。。

お坊さまも断捨離なんてするのですか?
それとも、あまり物に執着してはならないのでしょうか?
断捨離をする意味や効果など

お話を聞かせて頂きたく存じます。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当の断捨離

断たなくていいのです。
捨てなくていいのです。
離れなくていいのです。

さっきのことも、抱えていたことも、持ち物もみーんなわすれていた時節があるでしょう。
こちらが、断とう、捨てよう、離れよう、としなくても、
天然に断たれている所を見てください。
天然に捨てられて、流れて行っている所を見てください。
離そうとしなくても、自然に離れていっている所を見てください。
それが本有の断捨離。天然無為の断捨離です。
そういう生き方をすれば、持っていながらそれに持たれず、処していながら、そこに居ることすら忘れて、浮かんでいるかのような心境になるでしょう。
実際に空を飛ぶわけではないですが、そのくらいに心が軽やかになります。
もう一度、自身を見てください。
さっきの事が、断とう、捨てよう、離れようとしなくても、
とっくに、すたれていっているでしょう。
そこに目をつけるのです。
それが断捨離からの悟りへの道です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

執着は悩み苦しみの原因。

ものごとに執着するのは悩み苦しみの原因になります。
仏教で重視する断捨離は、精神的な断捨離、身軽で柔軟で静かな心になることです。
浄土宗の開祖法然さんの言葉で、
「念仏生活をしていれば、生きているうちは念仏(という修行)の功徳(修行の効果)が積もるし、死ねば念仏の力(阿弥陀仏の力)で極楽浄土に往生できるから、(生きても死んでも良いことだらけで、)とにかくこの世で思いわずらう必要はないし、生・死ともにノープロブレム!(生死ともに煩いなし)」
という内容の言葉があります。
生きても死んでもどっちでも平気。
AでもBでもどっちでも大丈夫。
状況がどっちに転んでもへっちゃら、という柔軟で身軽な心が、仏教でめざす心だと思います。
そのためには、Aでなきゃだめだ、Bでなきゃ無理だ、という執着を捨て、過去や未来への妄想を手離す工夫が必要でしょうね。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

願誉浄史様

参考になりました
ありがとうございます

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