明けましていきなりですが、作麼生・説破(そもさん・せっぱ)
明けましておめでとうございます。
昨年は色々とありがとうございました。
新年になり、ふと思い出したことがあるので二つ質問です。
一つ目はある私の大嫌いなパンクな僧侶が、
『門松は冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし』
という歌を残して、正月に京の街をシャレコウベを持って『ご用心なさい』と言って練り歩いたという逸話があります。
最初は、死に近づいてるのだから有難がるなよ、髑髏のような死体になるから気を付けなさい、という意味かと思っておりました。
しかし最近は、『寂滅為楽の涅槃に近づいた。めでたいな。でもまだ涅槃への道は遠い、めでたくないな(浮かれてはいられないな)。用心してしっかり行かないと』
と考えるようになりました。皆様の解釈はいかがでしょうか。
(死や死に向かっていく事に対してはめでたいも、めでたくもないのですが)
二つ目は、婆子焼庵という公案です。
内容は以下転載です。
『ある老婆が、一人の修行僧のために草庵を建て、
衣食住の一切を世話をして20年が過ぎた。
そこで「そろそろ いいか」と、娘を世話する
ことにした。すると 修行僧は「枯れた木が
寒い岩に立つように、私の心は燃えない」と
言って、娘の誘いをはねのけた。
娘からその報告を聞いた老婆は「20年も世話
してきて、まだ こんな生臭さか!」と怒り、
修行僧を追い出し、庵も焼き払ってしまった。
さて「婆さんの真意はいかに」というもの』
私なら、何故私を気に入ったかを聞いて顔や身体です、とか言われたら返事を翌日まで保留にして、そのまま旅に出ます。
性根や内面が気に入った、とか言われたら、一緒に出家しようと誘います。
片方が顔や身体を気に入って、もう片方の人が内面とか言われたら内面が良いと言ってきた人を出家に誘って、庵を出ていきます。
皆様はどんな解釈や回答になりますか?
(作麼生・説破の使い方が違うのはお許しください)
原始のブッディズムに非常に興味があります。 大乗仏教の教えの中にもブッダの言葉があるのかもと思い探しています。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
いつ死んでも大丈夫であれ
あなたのはただの個人的な「解釈」というものです。
禅は解釈やボクはこう思う。
ボクならこうする、ということではありません。
仮想現実や妄想、ありもしないことを想像して非現実世界に行くことでもありません。
死ぬという事実・実相には解釈も人間の見解もない。
人間がそれを眺める上で考えや解釈、評論、良し悪しが生じている。
あなたは大嫌いでしょうが、純に参じて悟りを得られ、あなたよりよっぽど人を救ってる一休さんはそこを軽々超えられた方です。
一休禅師の真意を読み取れず、言葉に引っかかって好き嫌いに振り回されているのであれば、その暴れまわっている自分の思いの方に目を向け真剣に禅に参じてみることです。
いい学びになるでしょう。
解釈や意味付けという世界は仏法ではありません。
語れば文字に堕するもの。
アレはこういう意味だ、これはこういう意味だという程度の本はいくら読んでも人の解釈。
意味付け地獄、解釈地獄に落ちればものの観方は百人いれば百通り。解釈の上での正解ということであればいい加減なものになる。
それは思想や思考の域をいまだ出でていないのです。
思考や解釈、見解を離れるべく実参して自分で明らかになさってください。
どっちも同じことを言っているのです。
正月や 冥途の旅も 一里から
明けましておめでとうございます。
旧年中はたくさんのご質問ありがとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
①無常迅速・生死事大です。
無常迅速…生まれて死ぬまでの間が人生の猶予期間というわけではありません。この一秒一秒、刹那刹那に我々は変化し続けています。今、この瞬間に如何に生きるか?その連続で人は形作られます。一秒嫌えば嫌ったなりの自分です。嫌ったなりの正月です。
生死事大…生き死にのことは重大だみたいに訳されがちですが、道元禅門下の私としては「生死のことは『大の一字』によって決着を付けよ」と読みたいものです。
『大』とは「大きな海のように分け隔てのない心」(大心)のことです。海はあの川の水は嫌い、この川の水はイイね!と自分の判断を振り回しません。どんな水でも迎え入れ、あらゆる水みんなで1つの海です。つまり、こっからここまでが自分という垣根を取っ払い、みんなみんなで大きな自分だと悟れということ。すなわち無我。
『発句経』でも無我という在り方に目覚めれば、死王もあなたを捕らえることはできないと説かれています。一休禅師もそういうことでしょう。
②僧侶は立派そうなことを言って娘さんを傷付けました。自分だけ聖人ぶって他人を傷付けるということは、知恵はあっても慈悲がないということです。慈悲がないということは、仏の智慧が智慧になっていないということ。頭の良さ的な知恵でしかないということ。ちょうど「ウチの水は清らかなんだから濁った水はコッチ来んな!」と言っているようなものです。
だからお婆さんは20年間の修行によって箔を付けただけの中身がない僧侶に失望したのだろうなと解釈しています。
回答僧の我々にも非常に耳の痛い公案です。じゃあ結局どう言えば良かったの?と考えても、相手次第で正解はないわけですし。逆にお坊さんが信徒に媚びへつらうようではダメだという教えもあります。
そしてお釈迦さまでさえ、自死しようとしている人を三度説得したがダメだったので、その人をめぐる環境の辛さやその人自身の生き方が複雑に絡み合い過ぎているのを悟り、立ち去ったという逸話があります。だから皆さん、この回答を読んだからってハードル上げないでネ。お願いしますm(_ _)m
それでは、この回答の功徳をもってあまねく一切に及ぼし、本年の世界平和と皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。合掌
質問者からのお礼
>>大慈様
明けましておめでとうございます。
昨年は色々と教えていただきありがとうございました。
おかげさまで八正道ができた一年でした。
>①無常迅速・生死事大です。この一秒一秒、刹那刹那に我々は変化し続けています。
確かにその通りです。
私の『用心してしっかり行かないと』では言葉足らずで、大きく間違った解釈です。
大般涅槃経でもブッダが、「出ていくときも戻るときも、前後を見るときも、腕を屈伸するときも、衣や鉢を取るときも、飲食や噛んだり味わっているときも、排泄しているときも、行住坐臥してるときも、起きているときも、喋っているときも、黙っているときも気を付けていること」とあります。
それは、一瞬一瞬で変化しているからいつも気を付けていましょうという事ですね。
>生死のことは『大の一字』によって決着を付けよ
ここは私にとって思考を超えているので、他人へ言葉や文字では「こうですか(こういう意味ですよね)」と尋ねるのが難しいのですが、
死(滅)が結果としてその原因が生であると考えると、諸行は常であると妄想することや、自我というものがあると妄想してしまう事(無明)が死への苦しみを生む原因である、という事でよろしいでしょうか。
(ちなみに、脱線ですが全ての生命が悟ったら、この世で肉体があっても一切煩わされることがない無為涅槃に至るのかなと思って、早く自分も含めてみんな悟らないかなと思っています)
>仏の智慧が智慧になっていないということ
勝手な想像なのですが公案をする意味としては、表面的な回答を期待するのではなく、回答者が今どの段階にいるかを本人や師僧が知っておくために必要で、悟っていない人が答えた場合は取り繕った回答でもやっぱり、そもそもの根本が違う回答になり、今の自分の段階に応じて毎回答えも違うという事でしょうか。
そして自分の課題として公案を解くときには、それがすべての人のためになる答えなのか、そしてそれが自分の八正道に繋がるのか、を考えながら今後も自問自答していきます。
そして返信で得た功徳を、すべての生きとし生けるものが幸せになりますように、と回向致します。
>>丹下覚元(たんげかくげん)様
明けましておめでとうございます。
昨年は色々とご教授いただきありがとうございました。
おかげさまで八正道ができた一年でした。
>死ぬという事実・実相には解釈も人間の見解もない。
私も含め、すべての生きとし生けるものは無明に覆われております。
その通り、主観や解釈、見解は毒です。
とても良い飲み薬を皮膚に塗ってくださいと言ってるようなものですね。
(粉の目薬を女房の尻に塗って、自分の目を直した旦那の話はありますが)
『ある私の大嫌いなパンクな僧侶』は人に法も説いていませんし、禅も体現しておりません。
悟りも開いていません。
そして誰も救っていません。もちろんパンクでもなければ僧侶でもありません。
私の心が生み出したもので、パンクなくせに善い事を言って私の心をとらえて離さない、あぁ嫌だ嫌だ、大嫌いだ。と勝手に妄想しているだけのマーラの一種です。
ところで、丹下様の仰る『一休禅師』とは誰の事でしょうか。
もし仮に「ある私の大嫌いなパンクな僧侶」を一休宗純禅師の事だと思わせてしまったのであれば、お詫びいたします。すみません、、、、、、、、
、、、、、本当に申し訳ありません、上の「ところで、~すみません」まで増長慢しました。お許しください。
冗談はさておき、話を戻します。確かに、
私(A)と他人(B)は違う人である(A≠B)
私(A)が思う他人(´B)と、他人(B)は違う人である(A´B≠B)
私(A)が思う他人(´B)と、他人(B)が思う他人(´B)は違う人である(A´B≠B´B)
どんどん似ても似つかないモノになってきます。
どうしてそういう事になっていくのか自問自答をしてみたら、自分が無明に覆われているからだという答えに行きつきました。
だから妄想をしてしまう。
歩んでいない(実践していない)ことや、過去や未来を解釈したりタラレバしたり意味付け価値づけで語るのは、ルークス〇イウォーカーになって剣とフォースの冒険するのと変わりませんね。
今こここの瞬間が唯一の道であり、選択肢は無数にあるがその道しか歩めない。という意味ですね。
ところでアニサキスに感染したという事ですが、お身体は大丈夫ですか。
私はインドの仏跡巡りで病気になり、ベッドで『この身体は良いのか悪いのか、何故私はそう思うのか』を自問自答し、良いも悪いもない、それ以上でもそれ以下でもない、過去や未来や他人とは比較できない唯一の愛おしい身体だと気づきました。
それではお大事にしてください。
訂正です
(違)
私(A)が思う他人(´B)と、他人(B)が思う他人(´B)は違う人である(A´B≠B´B)
(正)
私(A)が思う他人(´B)と、他人(B)が思う他人(´´B)は違う人である(A´B≠B´´B)