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経験値とかないんですかね。

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有り難し有り難し 36

小学生の姪に
「飴ってなんで無くなるとさみしい気持ちになるのにまた舐めるんだろね」
と言われて上手く返答出来ずにいました。

自分も昔から
カブトムシを捕まえた!嬉しい!
死んでしまってかなしい。
好きな人が出来た!毎日が楽しい!
転校してしまってつまらない。
親友が出来た!楽しい!
裏切られて悲しい。
バイクを買った!楽しい!
廃車で悲しい。
彼女が出来た!幸せ!
浮気された。死んでしまいたい。

一度手にした幸せもいつか失い、寂しさ、虚無感、絶望感の原因になるのであれば、初めから何も欲せず、幸せを避けて生きた方が不幸にならずにすむのではないか。
幸せとは不幸でない事ではないかと思います。
寂しい気持ちを知っているのなら飴を舐めない方が佳いのではと。

それでも尚、私は人を信じたり、愛して愛されたいと思ったりしてしまうのは何故なのでしょう。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

執着を離れる教えが仏教

まさにあなたのおっしゃることが「諸行無常」ですね。
お釈迦さまも、同じような悩みを抱えて出家しました。
「あれもこれも欲しい!」「手に入れたものを手放したくない!」と思い続けていると、苦しみが生まれます。
人間の欲は尽きることがなく、決して満足はしないんです。

でも、人間、最低限の欲望がないと生きてもいけません。
欲望自体はごく自然なもので、善も悪もありません。
しかし、その欲望に「執着」したとたん、それは煩悩となって自分を苦しめるのです。

例1・・・「お腹が空いた」は正常な欲望。
しかし、「うまいものばっかり食べたい!」独り占めして食べたい!」「お腹いっぱいになるまで食べ続けたい!」という「食欲への執着」は煩悩です。

例2・・・「生活のために働いてお金を稼ぎたい」は正常な欲望。
しかし、「贅沢をしたい!」「偉そうにしたい!」という「お金への執着」は煩悩です。

なにごとも「ほどほど」がいいんです。

しかし、人間同士となると難しい。
親子の愛情も執着、妻への愛情も執着、友達への信頼も執着....とは言い切れないからです。

しかし、相手を思いやらず、自分だけが満足するような人間関係は「相手への執着」につながる煩悩です。
愛情があるなら、自分よりもまず相手のためになになをしましょう。
それは、「執着」ではなく「慈しみ」となるのです。

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有り難し
おきもち

人生の「実(じつ)」は評価の方ではない

今ひと呼吸をしている。
その事に「私は息をすった!」「ひと呼吸を手に入れた!」「美味しい空気だった!」
ということはありません。
飴も舐めている時は美味しいのでしょう。
味がちゃんとある。
それは評価以上の手応え。
後からの感想や思ったこと、評価ではないもの。確かな手応え。
スニッカーズであればナッツぎっしり確かな満足。
味わっている時が真実なのです。
あなたが今やっていることも回想でしょう。
それは手応えのないこと。実の無い方を相手にしているということを知れば、気の利いた答えを姪っ子におしえてあげられるでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
いただいた御言葉を糧にどうにか日々をやり抜こうと想います。

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