「喜怒哀楽」から抜け落ちた「怒」
私は、今でこそ生き抜く為の知恵の1つとして、「怒」も必要ではないかと思っています。がしかし、昔の私は「あなたには喜怒哀楽の怒が抜け落ちているのではないか?」と言われ続けてきました。一番分かり易い例を上げますと、中学生の頃、私は酷い「イジメ」を受けていました。体も心も、いつも傷だらけ。精神的な苦痛だけでなく、肉体的な苦痛も味わう毎日。具体的に申しますと、グロテスクな内容になりますので、控えさせていただきます。でも、私はいつもいつも笑っていました。親にも先生にも相談することが出来ないまま…。卒業式が近付いてくると、先生方から、いろいろな言葉が書かれたカードのようなものをいただくようになりました。書き出しは、どの先生方も同じ言葉がおどります。「笑顔の素敵なトラスさんへ」「smile & intelligentなトラスさんへ」。まだまだ情報化社会でもない、スマホ等の媒体もない、SNS等の伝達手段もない時代。その時代に、1人、ひたすら「自殺」を考える日々を送っていた私には、その「笑顔」の「裏」にある苦悩を全く気づかれなかった、また、私自身、伝える、助けを求めることが出来なかった、結果、先生方はイジメに気付けなかったのだなと痛感した記憶があります。しかし、何とか卒業式の日を迎え、帰り道、ある友達が、別れ際に、こう言いました、「みんなでゲームしてたんだよ!誰がトラスさんを怒らせれるかゲーム!」と。唖然としましたね、「え?ゲーム?何それ?」と。子どもにとって、「イジメ」は「ゲーム」の1つなのです。
最近、よく児童・生徒等の子どもの自殺問題が注目を浴びています。多くの尊い命が失われています。「怒」の無かった私は、中学時代、辛い毎日を過ごしていた当初から、「イジメ=殺人」だと思っていました。大人になった今、私は問いたい!!!『イジメ=ゲーム→殺人』、この流れ、お坊さまの皆様はどのようにお感じになられますでしょうか?
今でこそ「怒」の必要性を痛感した経験から、時には「怒る」ことも大切だと思えるようになった私ですが、今思うのは、『イジメ=ゲーム→殺人』、そういう事象は、子どもの社会でも大人の社会でも残念ながら存在し、消えることなく存在し続けるのではないかということです。ちゃんと「喜怒哀楽」の感情表現あってこそ人間であり、どの感情も大切にしていかなければならないと、私は思っています。
・仕事は資格より素質 ・鬱になろうが5才児ぐらい好奇心旺盛 ・順風満帆な人生より七転び八起きぐらいの人生がちょうどいい
職場で久しぶりに再会した人に「やっぱり~!」と言われることが苦痛
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
怒るときは誰でも怒る
どの感情も当たり前に存在する感情です。短気な人、気長な人はいても怒るときは怒る。大切な人がいじめられていたら、怒るでしょ。そして悲しむでしょ。
イジメは殺人にもなり得るそうかもしれません。お笑い芸人のようなからかいは、信頼関係がなければならないでしょう。そこに、信頼関係のない人からからかいや冗談半分のイジリがあっても、受け入れられない人がいることを知らなければならないですよね。
喜怒哀楽それは、大切な感情であるでしょうね。こだわる必要はないかもしれませんが。そういう環境に触れた時に、そのように変わる、変化するのでしょう。
どうか発して下さいね!
拝読させて頂きました。
あなたがおっしゃるように人には喜び悲しみ怒り憎しみ楽しみはあります。それを表すことは決して悪いことではありませよね。
あなたが幼い頃にそのような本当に辛い思いをなさり、そのことを言うことができずに苦しまれたことは本当に苦しく悲しかったことでしょう。その様な中でもあなたは自分の感情を押し殺し必死に生き抜いてこられた事かと思います。あなたのお気持ちを心からお察し申し上げます。
そして一生懸命生きているあなたをゲームとしていじめ抜いた愚か者達や見て見ぬ振りをしてきた愚か者達やそれを許していた学校や社会に心から怒りを覚えます。
人の生命はそれぞれ尊いです。それをないがしろにして蔑みいじめ傷つけるような思いは悪意でありその様な言葉や行動に悪業です。
人の顔をした極悪な者達です。
その様な悪を為す者達には必ずその悪の報いを受け続ける事でしょう。必ず誰かがその悪をしっかりと見ています。神仏やご先祖様達がそして悪を為す自分自身が見ています。
天網恢恢疎にして漏らさず、です。
詳細は私達にはわからない私達の想像を超える事です。
先日私はある少年のお葬式をお勤めさせて頂きました。彼は12歳で亡くなりました、自死でした。その子はどんなに苦しんだ事でしょうか、どんなにか悲しかった事でしょうか、どんなに辛かった事でしょうか。私には想像を超えることですけれども本当に辛いことです。私はその子が必ず一切の苦しみから救われて仏様にお導き頂き、心から安心して穏やかになります様にと切に仏様にお願いしお念仏おとなえさせて頂きました。
仏様は必ずその子を救い導いて下さいます。
その子がこれから永遠に安らぎの中で生きていかれます様に心から願い続けます。
私も愚かな者ですからその子を追い込んだ愚か者達をどうしても憎み怒ってしまいます。そしてその様な事を起こしてしまう学校や社会を憎みます。良くないとは思います。
その様な惨事を決して起こしてはいけないと切に思います。
それには苦しみや怒りや悲しみを表す事も必要かと思いますし、その様な事をしっかりと感じとり決して悪事を許さない私達や社会が必要かと切に思います。
あなたは今しっかりと自分の人生を歩んでいらっしゃいます。どうかこれからあなたの思いを発して下さい、そして一生懸命お健やかに生き抜い下さいね!あなたを心から応援させて頂きます。
楽しい(ゲーム)は、欲の煩悩につながる
欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は、悩み苦しみストレスの原因になります。
怒りの煩悩には、悲しみや後悔やケチも含みます。
面と向かって文句言ったりしなくても、内心でむかついたりするのも「怒り」です。
怒らずに、冷静に「そんなことやってはダメだよ」と言うのが、仏様だと思います。
で、イジメをゲーム感覚でやるのは、楽しいからイジメをやる、ということ。
楽しいというのは、欲の煩悩がからみます。
つまり、子供達は、欲の煩悩(楽しいからもっとやりたい気持ち)に負けて、やってはいけないことをやってしまうのです。
宿題をやらずに遊んでしまったり、度を越したイタズラやいじめをするのも、「欲」に負けて理性を失っている状態。
「欲・怒り・怠け・プライドは煩悩」ということを忘れずに生活したいものですね。
質問者からのお礼
邦元様、いつもお返事ありがとうございます。私は、高校生まで「喜哀楽」で生きてきました。「怒」が現れたのは、大学生の時です。ある薬害訴訟の弁護団の団長である方の講義を受け、裁判を傍聴しに行き始めた頃です。被告側の安全管理の杜撰な姿を目の当たりにし、多くの命が失われてるにも関わらず、淡々と安易で希薄な主張を繰り返す被告らの姿に、言い様のない「怒」が出現しました。学生で、その裁判を傍聴し、また、ご遺族や患者様を支える方々と共に生きた学生は、私だけでした。和解するまで傍聴し続けた私。気付けば「喜怒哀楽」の感情が揃っていました。命の尊さ、儚さ、大切さ、かけがえのなさ等を学んだ結果、得た私の『宝物』。どなたにも波があるでしょう、また、時と場合によりバランスも異なるでしょう。「人としての感情」は、生きていく上で必要不可欠ですが、「過ぎる」「こだわる」はあまり良くないとも思います。ちゃんと自分自身を省み、その上で、前を向いて歩んで行ければいけないなと思っています。自殺に追いやる「イジメ」の経験、心にできた傷は、忘れることはないでしょう。しかし、生き残ったのですから、その暗く辛い経験を活かせるような生き方を、これからもずっとしていきたいと思います!
分かっていてした悪(イジメた本人達)も悪いですが、分からずにした悪(イジメの傍観者達)は、もっと悪いのではないかと、今は思っています。感情を弄ぶ人々より、知らず知らずのうちに人を傷付ける行動をとる人々の方が、達が悪いし多いのではないか、そんな気がしています。良い経験も辛い経験も無駄にせず、次に活かすことが大切であると私は思っています。
先ほど、学生時代は地獄だったという投稿を読みました。人間に点数や金額を付けて闘う(戦う)のは、司法の場においてではないでしょうか。まだまだ何かしらの傷が癒えていないのでしょう、意に反するお言葉が受け入れられず、口や心を閉ざしてしまったのか、投げやりなを返事をして去っていきました。でも、それでは何も始まりません。でも、その閉ざす気持ちも良く分かります。私にも、そういう時期がありましたので。まだ今は、今が過ぎるのを待つしかないのではないかと…。心配ですが、マイナスをプラスに考えられる日が来ることを、陰ながら応援したい気持ちになりました。
もう他人に相談しない!と思えたことも、また一歩かと私は思います。相談さえ出来ない時期は、言葉が出てこないものです。相談してみようと試みた心や意気込みは、その方が前進している証なのではないでしょうか。しかし、意気込みが少し強すぎて、空回りしている最中なのかも知れません。心安らかになる日は必ず来ます。心配な投稿ではありましたが、前へ進み始めた貴方を応援したいですし、見守ってくれる
人は他にもいますよと、お伝えしたいです。
Kousyo Kuuyo Azuma様、お返事ありがとうございます。もう3度目の大切なお言葉になります。生まれて、たった12年しか生きられなかった少年、さぞ苦しい思いをしたことでしょう。私も、13歳からの人生、本当に何度も何度も逃げ出したい、死にたい、消えてしまいたいと、何度思ったことか…。亡くなられた少年の話をえ聞きし、これも1つのご縁として、一生忘れないでいてあげたいと思います。これは、生き残った者の使命だとも感じます。そして、Kousyo Kuuyo Azuma様と同じく、私も「欲・怒り・怠け・プライドは煩悩」ということを忘れずに、これからも生きていきたいです。どんなに辛くとも、ムダな経験など無い。ちゃんと自分の使命を全うしたい、そう思いました!
最後の、Kousyo Kuuyo Azuma様と同じく、の、と同じくの前に、願誉浄史様のお名前を書きたかったのですが、気付いたら間違えてピッと「お礼を投稿する」を押してしまいました、すみません。正しくは、「Kousyo Kuuyo Azuma様とや願誉浄史様と同じく、私も「欲・怒り・怠け・プライドは煩悩」ということを忘れずに、これからも生きていきたいです。」になります。失礼致しました。
願誉浄史様、お返事ありがとうございます。前後してしまいますが、何度も為になるお話をしていただき、大変有り難い気持ちでいっぱいです。この「欲・怒り・怠け・プライドなどの煩悩は、悩み苦しみストレスの原因になります。」ということは、身をもって実感した確かな経験です。中学生の時、初めてストレスから胃潰瘍になりました。それでも、私は一度も学校を休むことなく通い続けました。最近は、世間でも「無理して学校に通う必要はない」と言われるようになった通り、私なら、「死ぬなら休め!」「休むことも受け入れよう!」と、イジメられている子どもがいたら、声をかけてあげたいです。将来、もしイジメられた経験のある子は、いつか気付くと思います。「イジメた側は忘れてしまうが、イジメられた側は忘れられないでいる」と。「言った側は忘れることでも、言われた側は忘れられない」ものです。しかし、これだけは言わせていただきたい、どんなに苦しくても、「復讐や報復は決してしてはならない」と。悪に悪が重なるだけです。悲しみに悲しみを上乗せするだけです。そして、自らがむなしくなるだけです。過去の辛い経験を理由に、かけがえのない命を無差別に抹殺する、そういう殺人を犯す愚かな人間が、どれだけいることでしょう。残酷な世の中です。辛い経験は、是非とも、世のため人のために活かしていただきたいと思います。皆で頑張って「今」を乗り切りましょう!私も、もっともっと成長して、「器の大きな人間になりたい!」と夢見ています。夢を実現したい!ひたすら、精一杯頑張るのみです。願誉浄史様、いつもいつもいつも叱咤激励をありがとうございます!