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オウム死刑執行(2)僧侶たちはどう受け止めた? ネットに集まった思い

 平成が終わる2018年、大きな注目を集めたのが、松本智津夫元死刑囚らオウム真理教元幹部の死刑執行です。教団による一連の事件と死刑執行という結末について、伝統仏教の僧侶たちはどのように受け止めたのでしょう? お坊さんのQ&Aサイト「hasunoha」で意見を募ったところ、自分たちの活動への反省や、宗教の持つ力への恐怖など、率直な声が寄せられました。平成を揺るがした大事件を、僧侶の言葉から振り返ります。

「葬式仏教」への反省

当時、伝統仏教ではなく、オウム真理教の信仰に若者が引き寄せられた理由は何だったと思いますか?

「hasunoha」は2012年に開設された伝統仏教の僧侶がユーザーから寄せられる人生相談などの悩みに答えるサービスです。200人以上のお坊さんが登録しています。今回、「hasunoha」のお坊さんにオウム真理教についての質問を投げかけてみました。まず聞いたのは、オウム真理教が若者をひきよせた理由です。

 この質問に対しては、伝統仏教が「葬式仏教」などと言われている問題をあげる声が出ました。

 円通寺・邦元さんは「世の中の仏教の印象は文化的なものばかりで現実に触れるのは、葬式は法事ばかり。そこに救いを感じることはできなかったのでしょう。目の前で「こっちの教えは救われるよ」とはっきり示していたオウム真理教の方に自然と意識が向いたのでしょう」と投稿しました。

 また、高学歴の信者が多かったことよりも「一般社会からこぼれ落ちた人たち」だった点を重視した上で、「そのような方々の受け皿」に伝統仏教がならなかったことを指摘する人も。

 法覚寺の吉武文法さんは「たとえ教義の内容や教団運営の方向性に問題があったとしても、救いを求める人の要求に真摯(しんし)に答えようとする何かがあったのでは」と振り返ります。

 真行寺・亀山純史さんは「超能力」に注目します。信者の若者たちが「超能力を得ることで将来への不安を解決できると持つようになったのでは」と指摘。「それに対して、伝統仏教の宗教行為は形骸化してしまっており、人々の具体的な不安や悩みに答えるような土壌がなかったと思われる」と述べました。

オウム真理教が結成した政党「真理党」の衆院選候補者発表で、壇上に並ぶ元代表の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚と信徒たち=1990年1月7日
出典: 朝日新聞


悩める人たちが救われる仏教は間違いなく伝統仏教の中にあったはずです。しかし、葬式仏教だとか坊主丸もうけなどと言われていた時代でした。世の中の仏教の印象は文化的なものばかりで現実に触れるのは、葬式は法事ばかり。そこに救いを感じることはできなかったのでしょう。
目の前で「こっちの教えは救われるよ」とはっきり示していたオウム真理教の方に自然と意識が向いたのでしょう。

円通寺・邦元さん

オウム真理教に入信した若者は高学歴という点がピックアップされますが、私は様々な理由により一般社会からこぼれ落ちた人たちであると考えています。
本来の仏教教団には、そのような方々の受け皿として機能があったはずですが、日本の仏教教団には残念ながらその機能はありません。
それがあれば、状況は変わったのではないかとも思っています。

大忍貫道さん

伝統仏教は己のポジションにあぐらをかいて本当に悩み苦しむ人々に正しい道を説かなかった、そして人々を救済しようと真剣に思わなかったからです。

一向寺・Kousyo Kuuyo Azumaさん

オウム真理教にはニュースなどで騒がれたように、いわゆるエリートの人たちが多く信仰していただけでなく、様々な事由における社会的弱者の方々もたくさん身を寄せていたと聞きました。救いを求める人たちにある意味では本気で救いを説いた、居場所を提供したということがあるのではないでしょうか。
たとえ教義の内容や教団運営の方向性に問題があったとしても、救いを求める人の要求に真摯(しんし)に答えようとする何かがあったのでは。
そして残念ながら伝統仏教教団にはそれが当時なかった、あるいは見いだしてもらえなかったということではないでしょうか。

法覚寺・吉武文法さん

オウム真理教の信仰に若者が引き寄せられた理由のひとつに、「超能力」という言葉があると思う。
科学が進歩すればするほど、いまだ解明されていない能力―超能力―への関心を持つも若者が増え、そのような中、空中浮遊の写真を示し、自らを最終解脱者と称し、たびたびマスコミに登場するオウム真理教(麻原彰晃)に対して、「自分が今抱えている社会への不満や自分の将来への不安を、超能力を得ることにより、あるいは麻原の下で修行をすることにより解決出来るのではないか」といった考えを、若者たちは持つようになったのが、若者がオウム真理教に引き寄せられていった理由のひとつではないだろうか。
それに対して、伝統仏教の宗教行為は形骸化してしまっており、人々の具体的な不安や悩みに答えるような土壌がなかったと思われる。

真行寺・亀山純史さん

お寺が機能不全を起こしているからだと感じている。まったく社会の悩みに対する受け皿になっていなかった。いまもそうだと感じているが、hasunohaやさまざまな活動にその萌芽(ほうが)を感じてもいる。

光琳寺・井上広法さん

宗教でこんなこともできてしまう恐怖

1995年当時、オウム真理教の地下鉄サリン事件などを知ってどんなことを感じましたか?

 事件を知った時の気持ちについて「怒りの感情」と「自分もそうなるか分からない」という恐怖を覚えたと告白しました。

 当時、高校生だったという円通寺・邦元さんは「どうして見るからに怪しげな宗教に流されてしまう人がいるのか、しかも高学歴といわれるような人が数多く入信していると知り、当時の伝統仏教の中の救いが伝わっていないことを感じていました」

 大学生だった善通寺・海老原学善さんは「ニュースから映し出される画像を見て、怒りの感情が湧き起こりました。しかしその半面、自分もいつそうなるか分からないという、えたいのしれない恐怖にも駆られました」と複雑な心境を語りました。

当時高校生だった私は、テレビで速報として流れてきた映像で知りました。リアルタイムで状況が深刻になっていく状況を見ていました。死亡者数が時間が経過するごとに増加してきて、「これは東京で大変なことが起きている」と感じた覚えがあります。
その後の報道の中でオウム真理教という宗教を知り、どうして見るからに怪しげな宗教に流されてしまう人がいるのか、しかも高学歴といわれるような人が数多く入信していると知り、当時の伝統仏教の中の救いが伝わっていないことを感じていました。

円通寺・邦元さん

当時大学生でしたが、オウム真理教の犯行だと知った時、ニュースから映し出される画像を見て、怒りの感情が湧き起こりました。
しかしその半面、自分もいつそうなるか分からないという、えたいのしれない恐怖にも駆られました。

善通寺・海老原学善さん

宗教でこんなことまでできてしまうのだと恐怖を感じた。当時私は東京で働いていて、事件の電車に乗り合わせた同僚もいたので、ひとごとではなく身近なできごととしてとらえている。

鳳林寺・光禪さん

オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚が潜んでいるとみられた第6サティアン付近に詰め掛けて待機する報道陣=1995年5月15日
出典: 朝日新聞

第二、第三のオウム真理教

事件が起きた1995年と、現在とで変わっていること、変わっていないことはありますか?

 当時と現在の変化については「宗教という言葉に色がついてしまった」と感じ、「宗教と名前が付かないほど、色も匂いも名前もないものであることを伝えていきたいです」という思いが寄せられました。

 往生院六萬寺・川口英俊さんは「事件後から宗教・信仰への警戒、アレルギーが顕著となり、いまだに根強く残ってあること。しかし、今後の世界、国、社会の不安定さによっては、第二、第三のオウム真理教が、またこの国において出てくる潜在性は、さほど変わっていない」と語ります。

 大慈さんが指摘するのは「多様化」です。年配の人が「一般論よりも、お坊さん自身の人生経験による血の通ったオリジナルの話」と求める一方、若者は「お坊さんの自分語りなんか興味ない。仏様の言葉や体系的な教義を教えて欲しい」という感覚の人が少なくないと言います。

大慈さんは、伝統仏教が世間のニーズの変化に無関心でいることで、また同じような事件が起きてしまう後悔を繰り返してはいけないと訴えます。

事件以降、宗教という言葉に色がついてしまったこともあります。
あれから20年以上たった今だからこそ、イメージを変えていくことができるような気がします。現在の仏教は、hasunohaもそうですが、SNSなどのインターネットやテレビ、新聞、雑誌など外に発信しようとする僧侶が増えてきたことが当時と変わってきたことだと思います。少なからず、今のままではいけない。
仏教の持つ本来の救いや魅力を表に出そうとする人が出てきたのは間違いないと思います。
また、今後もさらにお釈迦さまの時代から変わらない「救い」の部分を示しながら、私たちの生活の中に当たり前に仏教があり、それは文化的なものだけでなく本当に心底救われるものであることを示していきたいと思います。
宗教と名前が付かないほど、色も匂いも名前もないものであることを伝えていきたいです。

円通寺・邦元さん

変わったこととして、その前より、事件後から日本においての宗教・信仰への警戒、アレルギーが顕著となり、いまだに根強く残ってあること。しかし、今後の世界、国、社会の不安定さによっては、第二、第三のオウム真理教が、またこの国において出てくる潜在性は、さほど変わっていない。

往生院六萬寺・川口英俊さん

いまだ伝統宗教団体や宗教者は本当に悩み苦しむ人々に耳を傾けていない状況もあります。
地下鉄サリン事件・東日本大震災を通して宗教者や人々の意識はその後変わりましたが、いつの間にかもとに戻ってしまっているように感じます。自分もそうだと感じます。

一向寺・Kousyo Kuuyo Azumaさん

変わっているのは社会状況。変わらないのは人間存在です。
そして社会がいかに変わろうと人間がいついかなる時代でも迷う存在であることは変わりません。たとえ人間が思う完璧な理想社会が実現しようとも、煩悩があるということ、そして避けられない老・病・死があるという、仏教の視点は人間が苦しみ迷う存在である事実を突きつけます。宗教はその事実にこそ応えていかなければならないと感じます。

法覚寺・吉武文法さん

私たちの抱えている生きることに対しての悩みも、これだけ科学が進歩しても、変わらず存在している。それは、科学によって、生きることに対しての悩みは解決され得るものではないからである。

真行寺・亀山純史さん

一般の方がたがお坊さんに求めるものの多様化です。
ご年配の方がたは「一般論よりも、お坊さん自身の人生経験による血の通ったオリジナルの話を聴きたい」という需要が根強いです。私の宗派でも仏教語を全く出さずに仏教を説き切るのが巧みという風潮があります。
しかし若い世代には「お坊さんの自分語りなんか興味ない。仏様の言葉や体系的な教義を教えて欲しい」という感覚の人が少なくありません。これは信仰の対象が僧宝から法宝や仏宝にシフトしたというよりは、インターネットの普及で「ソースは?」が合言葉のようになった影響でしょう。実際、比較的ご年配の方がたの中でも、仏教仏教した専門用語を使って法話した方が熱心に聴いて下さる方の割合がどんどん増えていると感じています。
と言っても実際はシフトしているというより、多様化していると言った方が的確でしょうから難しいです。
しかし伝統仏教が『こうあるべきだ論』にあぐらをかき、世間のニーズの変化に無関心でいると、いずれオウム真理教の時のように「このような事件が起きたのは、我々伝統仏教が人びとの受け皿になれなかったことが原因です」という後悔を繰り返してしまうかもしれません。

大慈さん

1995年1月に撮影されたオウム真理教の施設=山梨県上九一色村富士ケ嶺で
出典: 朝日新聞

インターネットの活用を

これから宗教が果たす役割についてどのようなものがあると考えますか?

 これからの宗教の役割については、お寺に敷居の高さを感じさせてしまっていることを「変えていかなければならない」と指摘。「仏教は実は身近なもの」「生きにくい社会にも働きかけていく」という決意が書き込まれました。

円通寺・邦元さんは「仏教は実は身近なものであることに気づいてもらえるようにしていくこと」を挙げます。

 インターネットの活用をすすめる意見もありました。

大慈さんは「(昔ながらの)パイプにつながっていない人たちには全く伝わらない状態を引き起こしています」と指摘。「コミュニケーションの種類、量を増やしていくこと」ことの大切さを訴えていました。

私は、昔から師匠でもある父の姿を見て育ってきました。仏教ということは意識せずに育ってきました。
近所の方がふらっとお寺によってはおしゃべりをして帰っていく、そんな中で人生の悩みを打ち明けていく方も多くいました。仏教とはとても身近なものなのだろうと小さいころから感じていました。
お寺と一般の差が生まれてしまった時代、敷居の高さを感じさせてしまった時代を変えていかなければならないのかもしれません。
これから先やるべきことも、悩める人、悩める社会、救いを求めている人を救える仏教である、ということを伝え続けることしかないと思います。僧侶は常に人を導くために修行しつづけていかなければなりません。そして、個人的な考えを伝えるのではなく、心の底から救われる道を示し続けなければなりません。
仏教は実は身近なもので、「知らず知らずのうちにやっていたようなことなんだ」、「そんな中に救いがあったのか」、ということに気づいてもらえるようにしていくことでしょう。生きにくい社会にも働きかけていくことにもなると信じています。救いは「今ここ」にあるということです。

円通寺・邦元さん

宗教が果たす役割は、これまでもこれからも一緒だと思います。変えてはいけないことだと思う。宗教を通してひとりでも多くの人に幸せと安心感をもって暮らしていただけたらなぁと思います。

鳳林寺・光禪さん

コミュニケーションの種類、量を増やしていくことだと考えています。
お坊さんの世界ではいまだに「インターネットは人と人とのつながりを失わせるものだ。利用してはならない」という認識が根強く残っています。そういった感覚が昔ながらのパイプだけを用いたコミュニケーションにつながり、同じ家、同じ人にばかり情報を発信し、そのパイプにつながっていない人たちには全く伝わらない状態を引き起こしています。
ところが実際は、インターネットの普及で人と人とのつながりが密になり過ぎ、疲れ切った人びとが続出しています。そのような社会の苦へお坊さんが無関心であることが、「坊主なんかに期待することは何も無い」という層を増やす要因の一つになっています。
こういう所から、オウム真理教の時のように「このような事件が起きたのは、我々伝統仏教が人びとの受け皿になれなかったことが原因です」という後悔が繰り返されてしまうのではないでしょうか。宗教は、それぞれ、常に批判的・合理的に厳しく検証されつつ、世界人類の幸せへと向けて努力していくことが必要であると考えます。

大慈さん

撮影・執筆:withnews
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承諾番号 19-1065

文・hasunoha編集部
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