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想い続けてたら願いは叶いますか?

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初めまして。

どうしても叶えたい願いがあります。
ここまで想ったことは人生において初めてです。
それに伴ってはもちろん努力は怠らず、耐える覚悟は出来ています。
諦めず努力し続け、誠実に想い続けてたら願いは叶いますか?
また、他人の心を動かすこともできるのでしょうか?

僧侶の皆様はどうお考えですか?
教えてください。
よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

想いは努力の源となり、継続のエネルギーである

亀山純史と申します。
想い続けること自体で願いが叶うことはありません。もし、想い続けることで願いが叶うとすれば、受験勉強をしなくても、志望校に合格したいと想い続けることで、そこに何らかの奇跡が起こり、志望校に合格できるでしょう。しかし、そのようなことはありません。また、想い続けたが願いは実現しなかったことは、多かれ少なかれ、みんなが経験しているところです。
では、想い続けることは無意味か、と言えば、そうではありません。想いは努力の源となり、その努力を継続していく上でのエネルギーです。強い想いがあったから、ここまでやってこれた、という経験談は数多くあります。
そして、(どうしても叶えたい願いがある時に申し訳ありませんが、)「この世は無常である」と説くのが仏教ですので、もしも願いが叶わなかったならば、その現実を素直に受け入れることが大切なのです。想いは自分を中心とした心の動きですが、この世は、自分を中心に動いているわけではないのです。そうして、そのことに目覚めることが、仏教の悟りへの要でもあるのです。
最後に、人の心は、あなたの想いだけで動くことはないと思います。人の心を動かすのは、あなたのその人に対しての「誠実さ」だと思っています。

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hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

具体的に何をするか

いくら石に動け、動け、と念じても動きません、動かせません。
100日念じても動きません。
ですが1秒「あ、つーか、私が動かばいいんじゃん」と思って、実際に自分で、もしくは誰かの手を借りて行動によって石を動かすことができます。
それが、人間の❝意思・意志❞というものです。石だけにねっ!(キメ顔)。
たとえば「好きな人と一緒になりたーい」とあなたが10年想っていても、アナタより、より具体的な手法で彼をメロメロにしてしまう人がいれば、彼だって、そっちに気が向いてしまうかもしれません。
「念ずれば花開く」
何をどう念ずるのですか?
「心が変われば、態度が変わる。 態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。 習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。 運命が変われば、人生が変わる?」
じゃあ、心を変えるってなぁ、どういう事じゃ!?
という真剣な問いかけが無ければ、だれの何の心も変わらないのです。
それを具体的に考えるというご質問でしたら、もっと具体的な助言ができると思います。
「鳥になりたい」
人間は鳥にはなれません、でも鳥人間やひこうき製作者は間接的にその願いをかなえました。
「魚になりたい」
人間は魚にはなれませんが、潜水艦や船で、間接的に願いをかなえました。
生命は長い進化の中で、あらゆる夢を実現してきました。
あなたの願いもきっと叶うでしょうし、妨げられてしまうものもあるかもしれません。
それでも、その夢の実現に向かって精進する所、必ずそれと共に素敵な学びが伴うのです。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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