考えてしまった...
僕は最近5逆罪というのを知って
その中に仏様の体を傷つけることというのが書いてあって
仏様の体を傷つけることは多分仏様の銅像を壊したり仏壇などを壊したりすることという勝手な解釈をしています
そしてその5逆罪を知った時に
僕は仏様に血を流してくださいと考えたらどうなるのかなと思ってしまい、最初は別に考えても仏様はそんなことしないと思っていたのですがだんだんと不安になってきて最近は反省して
僕は仏様には血を流してほしくはないし
銅像や仏壇を大事にしなければいけないと思います。だから仏様はとても大事にしているのですが、こういう不謹慎なことを考えてしまった僕は無間地獄に落ちてしまうのでしょうか?
でも考えしまっただけでそんな仏様の体を傷つけたいとは思わないし仏壇や銅像も壊したいとも思いません
阿弥陀様はこんな僕を救ってくださるのでしょうか?浄土真宗の中学生です
仏様ごめんなさい...
お坊さんからの回答 4件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
『お詫び』
投稿した文章は仏典・論書・祖録等を引用して予め法理を明示しなかった為に、回答内容が仏教とは異なった通俗的な価値観に比重を置いたアドバイスになっておりました。
この回答が仏教を学ばれる方々の妨げとなる可能性がありましたので、まことに勝手ながら回答を全て削除させていただきました。
代わりにここでは、仏教の概要を少し紹介させて頂きたいと思います。
『仏道』
仏教の門戸とその修行法は多種多様でありますが、その道のりの先にあるのは解脱です。
大乗仏教では、菩提心がその人に現れる時から仏道は始まり、数多の転生を繰り返し、数多の大師や仏菩薩と出逢いながら、久遠の修行の時を経て、その人の全てが捧げ尽くされ、そこで菩提心が開示されます。
道の始まりから人は、菩提心に導かれ解脱へ辿り着きますが、そこで悟るものも菩提心です。
道の初め、自らの苦しみからの解放を求める切なる純粋欲求であった個人的な菩提心はやがて、すべての存在を救いたいという祈りに裏打ちされた不屈の意志と信心をその人に刻み付け、非個人的な菩提心が解放されます。
そのような菩提心と與に道を歩む人を菩薩と呼びますが、菩薩の意志や信心、原動力の源が解脱の時に悟ることになる菩提心です。
菩薩が歩む大道の上には、見道や解脱、その先に続く仏としての完全な成就の因となる多種多様な修行が立ち現れます。
日本仏教という道もこの大道を源としているので、全ての道はそこへ還りつくようになっています。
その人の道はその人にとっての真性の師である覚者との邂逅や、久遠の時を與にしながら道を歩んだ法友との再会によって開かれ導かれていく歩みであると伝わっております。
どうかKソータ様の出逢いとその歩みの上に障碍がありませんように。
願以此功徳
普及於一切
我等與衆生
皆共成仏道
合掌
大丈夫ですよ。
Kソータ君、こんにちは。
仏さまは、Kソータ君が考えるほど、弱くはないのですよ。仏像を壊してもそんなことでは仏さまは怒りません。もし罰があたるならば、そういう壊した心が災いを招くのです。
だから、もしそのようなことをしても、そのような心になっても、反省すれば、仏さま、阿弥陀さまはニコニコと笑ってくださります。
でも、中学生で『五逆罪』を知っているなんて、よく仏教を勉強していますね。今、Kソータ君が阿弥陀様に喜んでくれることは、一生懸命勉強して、スポーツをして、人様の幸せのためになるような仕事や生き方をできる努力をすることです。立派な大人になったら、子どもの頃におかした罪も全部消えてしまいますよ。
がんばって!合掌
私のための阿弥陀様ですから、心配ご無用。
亀山純史と申します。
私も不謹慎なことを考えてしまうことがあります。多分、不謹慎なことを考えたことがない人は、いないのではないでしょうか。例えば、自分の家の方から消防車のサイレンが聞こえた時、「自分の家が火事ではないように。」と思ったりはしませんか。これは裏を返せば、「他の人の家でありますように。」ということでしょう。
さて、親鸞聖人は「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と仰いました。私の在りようも、不謹慎なことを考えてしまう、まさに「いづれの行もおよびがたき身」であり、「地獄こそが自分の行き場所」なのです。
一方、親鸞聖人は「彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。」とも仰っておられます。つまり、阿弥陀様は、いづれの行もおよびがたき身であり、地獄こそが自分の行き場所である私のような人のための仏様なのです。
しかし私のための阿弥陀様であっても、不謹慎な私が不謹慎でなくなるわけではありません。浄土真宗の教えは、阿弥陀様の誓願(本願)に会えば、今のままの私で仏様に成らせていただけるというものです。ここで言う「阿弥陀様の誓願(本願)に会う」とは、「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」という自分に会うことであり、それは、そのような私が阿弥陀様の救いの中にすでにいたことを知ることでもあります。ですから、何も心配することはありません。両手をあわせて阿弥陀様への報恩感謝のお念仏をいたしましょう。
想像だけでは罪にならない
こんばんは。
もちろん仏像や仏壇は、大切に扱わなくてはいけません。
でも、「木仏を燃やして暖を取ったお坊さんの話」(丹霞焼仏の話)があります。ここに書くと長くなるので検索して調べてみてください。また不要となった仏像や仏壇を処理するお仕事をする人たちだっています。
私たちは確かに仏像に対し手を合わせていますが、実は拝んでいるのは、仏像自体ではなく、その向こうにある仏教の教えだったり、ご先祖様だったりするのではないでしょうか?
次に想像してしまった、の件ですが、
私は先日地域の運動会で審判をしたのですが、その審判の講習会の時に、講習を受けに来た人が「これをやったら反則ですか?」と講習の先生に質問していました。審判をやるに当たって様々な可能性を想像しなくてはなりません。当然ですが、反則を想像したからといって、それは反則にはなりません。「実際の試合中に」反則行為をしなければ反則にはなりません。
それとおなじです。あなたも「これをやったら五逆罪かなぁ」って想像しただけなんだから、それは罪にはなりません。ご安心ください。
これからも仏像や仏壇を大切にして、拝みましょう。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございます
ふと考えてしまうことはこれからもあると思いますが
あまり気にせず頑張って行こうと思います
阿弥陀様には先ほどお参りをしてきました。
これからもそういう考えはなるべく抑えて勉強やスポーツを頑張りたいと思います
また何かこのサイトに質問するかもしれないのでその時はよろしくお願いします
では宿題してきますね笑
あと独り言で仏様に前まで謝ってました。でも独り言はやめて心の中で謝ろうと思います
みなさんありがとうございます



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