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日常生活の諸事がなぜ大切なのでしょうか?

回答数回答 3
有り難し有り難し 56

禅の教えでは日常生活にこそ悟りがあると言われています。

食べること、寝ること、掃除すること、整頓すること、買い物に行くこと、洗濯すること等です。

私には意味がわかりません。
こんな面倒なことをなぜ一々やらなければならないのでしょうか?

我慢が大嫌いなので出来るだけいい加減にパッと終わらせたいと言うのが本音です。
苦痛以外の何物でも無いと思います。

しかし、禅では私と全く逆の考えです。
どう言う意味や動機があって辛い諸事に勤しむことが出来るのでしょうか?
何故そんな我慢に我慢を重ねるようなことが出来るのでしょうか?「空」の思想との関連性も知りたいです。「空」の思想を日常生活の諸事で会得できるのか?

教えて下さい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

サボらない方が楽だから

あらゆる事物には原因と結果があります。この世界は原因と結果の網の目のような繋がりによって成り立っており、私たちもまた、その網の目の1つです。
だから自分を大切にしようと思ったら、自分に繋がる原因1つ1つを大切にすることでしか、本当に自分を大切にすることはできません。だから本当に賢い生き方とは、自分勝手に振る舞うことではなく、他者を大切にすることです。
これがお釈迦さまの教えです。

この原因と結果の繋がりについて、一部の網の目にこだわるわけでなく、また一部に着目することにアレルギー反応するでもなく、善い意味で自由自在なあり方が空です。

私たち禅僧は寝起きや食事をする僧堂という場所の掃除をサボると、このように叱られます。
「僧堂はお前の生命だぞ!お前は自分の生命も大切に出来んのか!!!」
原因と結果の繋がりとして見たとき、僧堂は私に繋がる直接の原因です。食べ物も寝具も部屋もみな私に繋がる直接の原因です。だからそれらは皆、私の生命であり、私自身です。

そのように自分をネズミ算式に拡げていきます。すると世界全てが自分になります。その大きな自分を仏と言います。その仏の生命に自分をお任せし切る…すると苦が生じる余地がなくなります。
何故か?苦の原因は個々の網の目が繋がりを無視し、自分勝手に我を主張することだからです。世界全てが自分であれば、自分勝手な我をぶつけようがありません。
枠組みを外すというのはそういう事です。何も意識しないことではありません。空を会得するのではなく、我を1つ1つ落としていくと空が残ります。

食事は食事で丁寧に食べる。寝る時も安眠できる方法を探してしっかり寝る。掃除や整頓も丁寧にする。そういったことを習慣付けた方が実は楽なのです。
ただ、ここでいう丁寧とはとにかく慎重に厳重にすることではありません。詳しくは↓
http://hasunoha.jp/questions/14536

あと、禅は中国で組織化しましたが、中国は廃仏棄釈の本家本元です。政権が変わるたびに焚書坑儒や文化大革命のようなことをしてきました。その中で僧団を保つため、修行を自給自足の生活に落とし込んだという歴史的事情もあります。
それから、私はタイ系上座部仏教でも修行しましたが上座部のヴィパッサナーで習ったことは、日本の禅の道場で食事や掃除の時に教わったことと全く同じで感動しました。

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曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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 前回の質問で「枠組みを外すことが空だ」ってご自分で言ってたじゃないですか。良い事言うなぁと思っていたのに...
 なのに早速「面倒だ」「嫌いだ」などと枠組みを持ち込んでしまっています。
 そのような枠組みを外すことからです。

 まずは実践です。

最後に仏教詩人の榎本栄一さんの言葉を
「口に入れるものや 手にふれるものを だいじに扱うていると この一にちがとうとくなり このいのちがふかくなる」

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・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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そう考えてしまうあなたの心に変化を

多くの人にとって、当たり前のことを当たり前にすると
いうことは面倒極まりないものです。
ある時、私は研修に行きまして、
朝3時に起きて、夜11時過ぎに寝る。
一般的には精神的にも肉体的にも苦痛かもしれませんが、
これが私には楽なんです。
言われたことを言われたとおりにすればよい、
何も考えないでいい。
これは楽だと感じました。衣食住すべて与えられるから、
食べるために働く苦労がない。
これは私のような怠けものにとっては修行にならないと。
感じました。
日々の生活の中で、ああ面倒だと思う心、ついつい怒り出してしまったり、
人を非難したり、責めたり、他人には厳しいわりに、自分には極めて甘く、
そういう自分お粗末極まりない心の在り方に、
少しづつ小さくてもかまわないので、変化を与えていく。
これこそが私にとっての学びなのだと。
空とはからっぽなことではありません。
いろいろな気持ちでいっぱいになっているこの私の心を、
すっきり澄み渡った状態に長く保つこと、それが空であると、
愚僧は思います。

ご苦労さま 合掌

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おきもち

浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向...
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質問者からのお礼

諸事に深く没入することは深く生きることに繋がるのですね。縁起によって全ては繋がっているから。で、そうすると我が消えていくと。
なるほど、これはものすごい着想だと思いました。

そうすると我慾が消えるから心が澄み渡り空になると。

私にとってこれは凄い発見です。皆さんありがとうございます。

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