近所の視線が気になります
私自身がとても敏感で、以前の職場でも同僚の言動が気になったり、聞きたく無い事でも耳に入って来てしまい、それによって疑心暗鬼になり職場を去った事も有ります。
これは子供の頃からもあり、どうして私だけ?みんな平然とやり過ごせる事が私は出来ないのかと…真剣に悩みました。
しかし中高年になり、自分はこう言う性質なんだから仕方がないと少しは思えるようになりました。
ここ数年、認知症になった母親を介護しています。
母親は今年に入り自分で立てなくなり、認知症も進みました。
デイサービスの送迎車から車椅子で降ろされる所に、近所の母親と同年代でとても元気な人が寄って来て、母親の様子をみたり反応を試すかのように、話しかけようとします。
その人達は母親が元気な時は近所としての付き合いは有りましたが、特別親しかった訳ではありません。
決して心配して母親の姿を見てるのでは無いのが私にはよく分かるだけに、そして元々母親自身もそんな姿は見られたく無いと思う人なので、母親がかわいそうに思えてなりません。
世の中には色々な人間がいます。
そういう場面を見ないでおこうと考える人もいれば、土足で踏み込む人間もいます。
きっと私の被害妄想なのかもしれませんし、考えすぎなのかもしれませんが、私はとても嫌な気持ちになります。
こんな気持ちをどのように考えると楽になるのか、教えていただきたいと思います。
よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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疑うことより先に信じてみたい
とらのこさん、こんにちわ
私からは「観音経」というお経をご紹介します。
観音様はどのような菩薩であるのかをお説きくださったお経典です。
その中の一節に、観音様は私たちを正しい方向に導く為に、ありとあらゆるお姿に変化し、現れると説かれます。
時に僧侶のお姿でおさとし下さることもあれば、子供の姿であなたにやさしく微笑みかけてくれるかもしれない。
大人の男性や女性の姿で叱咤激励をしてくださることもあれば、年老いた姿で生きることの大変さを伝えてくださるかもしれない。
私たちの周りの誰かが、もしかしたら観音菩薩の化身かもしれないということです。
きつく当たってきたあの人も、やさしく声を掛けてくれたこの人も、今あなたの隣にいるその人も、もしかしたら強く生きよと課題を与えて下さったのかもしれない。
まずは他者を認め、他者から見て自分も観音様と思われるような振る舞いをしなさい。
「観音経」からそのように頂くことができます。
あなたの嫌いなあの人も実は観音様なのです。まさか信じられないと思われるかもしれないが、本当に観音様かもしれない。
好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌い。
これは当然でありますし否定はしません。
しかし嫌いな人から学ぶことはないかといえばそうではない。
なぜあの人はあんなことを言うのだろうか、もしかしたらこうゆう意図があったのではないか。
必ず人は善を持ち合わせています。見ようとしないだけかあるいは自身の偏見の眼がそうさせているのかはわかりません。
疑いの眼から始まるのではなく、信じる心から始まることのほうがより良い生き方なのではないか。わたくしはそのように思います。
合掌
質問者からのお礼
他者から関心をもっていただいてる事は観音菩薩様が私自身に励ましの気持ちを授けていただいてるのかもしれません。
人間関係このように思う事によって心が軽くなり、観音菩薩様に少しでも近づく事が出来れば有難い事です。