元彼の結婚。全て忘れて前に進みたいが、辛くてたまりません。

苦しいです。どうしても苦しいです。死を選びたくなるほど苦しいです。

前を向きたい!私も幸せになりたい!という気持ちと、現実に心がついていかずもう死んでしまいたいという気持ち、敗北感・劣等感・屈辱感・嫉妬が同居していて心が混乱して辛いです。

ご回答の程、よろしくお願い申し上げます。

32歳女性、ゆりこと申します。
一年前、当時付き合っていた恋人に別れを告げられました。そして、つい最近、その彼が結婚したことを知りました。

別れのきっかけは彼に他に好きな人ができたというものでしたが、私にも原因はありました。
でも、どうしようもなく辛いのです。女性として負けたことに納得はしていても、因果応報と知っていても感情が追いつきません。

別れた日、彼にまつわるものは何もかも捨てて、連絡先も写真もすべて消去して、区切りをつけたつもりでした。

でもこの一年、心は後悔と反省に押しつぶされそうでした。毎日毎日、心の狭かった自分、ダメな自分を痛感させられる毎日、虚ろな毎日でした。

あの時こうしておけばよかった、もう少し彼を頼っておけばよかった、男心がわかってなかった、言いすぎた、
私のことを真剣に考えていてくれていて大事にしてくれていたのにと考えない日はありませんでした。

そして彼が結婚したと知り、本当の意味でも彼を失いました。

いつかこういう日がくるだろうとずっとずっと怖かったです。それが現実のものとなり、狂ってしまいそうに今、辛いです。バチが当たったんです。

「時期じゃなかった」「縁がなかった」と頭で理解はしていても、今は辛くてたまりません。発作的に死を選んでしまいそうです。

交際当時、私は彼の頼りなさに苛立ちを覚えていたし、結婚の苦労はこの人とは共に乗り越えられないなんて感じてしまっていました。
ひどいこともたくさん言いました。自信がなくて素直になれない・頑固でわがままな性格にもうんざりしていたはずなのに「それでもいい」と言ってくれました。

女性としての“負け”や、過去だとわかっていても辛いです。同じ市内で彼は私のことなど忘れ、幸せなのだと思うと惨めでたまりません。嫉妬です。

諦めは心の養生とわかっていても心がザワザワと落ち着きません。辛くてたまりません。どうすればこの心の震えを軽くできますでしょうか?

有り難し 10
回答 1
回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

諦めることではなく ワタクシしない事が仏教の男女関係です

その処方箋が正しければあなたはとっくに楽になっているはずです。
私からの処方箋は、相手を自分の所有物と思い込んでいる所がありますので、それを撤回、キャンセル、軌道修正することです。
人はいくら付き合っても、結婚しても自分のものになりません。
そもそもがその人はあなたのものでも何でもない存在です。
人は、縁があった人間を自分の心のなかで、心地よい所に配置します。
あなたの中で彼はおそらく、イイトコロに坐らせているのだと思います。
そこから一度彼を追放してください。
人は誰のものでもありません。
誰も人のものにもなりません。
あなたとは無縁無関係、独立独自の存在です。
そこをよくよく再認識してください。
そうすることで執着が取れます。
どこかしら勿体無いような気持ちがアナタを苦しめているのです。
ですが、その人は誰のものでもありませんし、別にあなたは負けたわけではありません。
仮に30年後にその人たちが結婚したからと言って誰がうらやましがるというのでしょう。
人間には、変な所があります。
若さ、華やかさ、きらびやかさ、どれもすべて一時的な事です。
比較の中で優劣勝敗やっているうちは真のシアワセにはたどり着けません。
あなたのご質問の中にもそこに通ずるところがありますので、最初の一歩を誤っていただけであったと思い返して、次の恋愛は、求める方向性を【相手】ではなく、自分のトータルな安らぎ、安心を求めてください。
その為にも、人も自分も私的な占有意識、所有意識を捨て去ることです。
それがわたくししない、自分のルールを押し付けない、自分の求めを無くすことです。

2年4ヶ月前

質問者からの有り難し - お礼

丹下 覚元 様
ご回答ありがとうございます。遅くなりまして失礼しました。
頂戴した回答を拝読して、今、心が嫉妬と劣等感で苦しくてたまらないさなかではありますが、少し気付かせていただいたかもしれないと思っていることがあります。

私は自然豊かな場所に住んでおります。様々な木、花々を見て、同じ科の木でもどれひとつとして同じものはないのだと気付きました。
枝の太さ、生えている場所、色づいて落葉したもの、まだ緑色のもの…花びらも一枚一枚違うところに生えて、咲いています。雑草も一本一本違うところに生え、風が吹いても各々の方向に波を作ります。姿かたちは似ていても、違うのです。
私と彼も同じなのですね。私には私の人生、彼には彼の人生。性別も顔も体型も生育歴も性格も違う。それぞれに「シアワセに至る階段」のようなものがあって、彼が私よりも少しだけ早くシアワセに到達しただけ。彼や全ての人間がそこで迷い、苦しみ、傷つき、悲しみ、時に立ち止まり、努力し、沢山の過程を経て、そこに至るのですね。
シアワセに至る階段は高さも幅も人それぞれ違いますし、その過程に早いも遅いも老いも若いもない。植物たちのように勝ちも負けもない。みんなみんな違うのですね。
たまたま私が今苦しんでいるように、彼には彼の苦しんだ時期が必ずある。そして、そのお互いの階段のなかで、たまたま彼は私を、私は彼をお見かけし、時間を共有した。
でも、歩幅も階段の高さもそれぞれに違うのですから、離れたり、近付いたりするのも自然です。
彼は彼の足取りで歩みを進め、時を同じくして同じ段階にいた女性と結婚した。私はまだその段階にはおらず、そこに至るまでまだまだプロセスがある。階段に近道などないのですね。

彼がそこへ到達したように、私にもそこに至る日は必ずくる。結婚という形なのか違う形なのかもわかりません。

「彼は彼。私は私。」それが、ワタクシしないということに繋がる気がいたしました。
丹下覚元様からご回答をいただけていなかったら、私がこのような考えに至ることもありませんでした。ありがとうございます。

余談ですが、私の名前には、仏教用語からとったという漢字が使われています。今私は亡き祖父に試されているのかもしれないなと思いました。
行きつ戻りつしながら、少しずつでも心を鎮めていければと思っております。丹下覚元様、ありがとうございました。

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