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経験を所有することについて

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有り難し有り難し 18

「すべては自分だった」
「分離しているものはなかった」
「全ては夢のようなものだった」
「経験は全て同等で、優劣や特別なことなどなかった」
突然のシフトがありました。
何かを得たのではなく、失いました。
(実際は初めから何も得ておらず、失いもしていないことがわかりました)

上記のような気付きであったのにもかかわらず、この経験を自分のものだとするエネルギーがやってきました。
自我はだんだんと忍び寄りました。

そして「個人はいなかった」という気付きを個人的に所有しています。
いったい誰が所有しているというのか、、

一度個人を突き抜けた真実は、疑いの余地すら残さないほど明らかでした。

同じような経験をした人はいっぱいいると思います。

でもその後のプロセスとして、この所有した感覚をどう取り扱うか(取り扱える人というのはいませんが)、仏教の教えの中ではどういったことが伝えられているのでしょうか?

それとも仏教とは関係がないことですか?
拙い文章で申し訳ありませんが、伝わることがありましたらご教授願いたいです。よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

菩提心と慈悲心の滋養と、智慧と福徳の修習が必要となります

有未様

「すべては自分だった」・「分離しているものはなかった」・・

仏教でもこのような表現が仏典から表出されるところはありますが、この理解が、ヒンドゥー教ヴェーダーンタ学派・シャンカラによる学説である不二一元論なものに陥ってしまうと仏教における理解とはかけ離れたものとなってしまいます。

それは、「拙回答の基本的な前提となる考え方について」( http://www.hide.vc/h1.html )における小前提全てに関わる誤りへと陥る危険性がございます。

要点は、仏眼に映える世界観と凡夫に映える世界観とは絶対に混同させてはならないということになります。

「全ては夢のようなものだった」・・

如夢という表現は、全てのモノ・コトには実体(自性・自相)が無いという「空」の現実面における顕れの例えとして使われることがございます。夢と如夢との違いは、先の問いでの前出の「効果的作用力」の有無となります。

「経験は全て同等で、優劣や特別なことなどなかった」・・

全てのモノ・コトには実体が無いため、実体が無いということにおけることにて、全ては同等であり、優劣や特別なことも無いと言える「空」の理解となります。

「実際は初めから何も得ておらず、失いもしていないことがわかりました」・・

「無所得」という、実体が無いものには何も捉えられるものがないということの「空」の理解となります。

上記の気づきから「自我はだんだんと忍び寄りました」というのは、また己や他の顕れの実体性への捉われが生じ始めてきてしまっているということでしょう。

「一度個人を突き抜けた真実」というものは、いわゆる、空性を理解する無分別知や三昧、等引知と言われる状態でしょうが、問題は、顕現しているモノ・コトの実体性への捉われというものは、やはりなかなか拭い去ることができないというところでございます。

「無分別」につきましては、下記の拙回答をご参照下さい。

問い「分別と無分別について教えて下さい」
http://goo.gl/Oo21gj
問い「無分別をどう生かしたらいいのか」
http://goo.gl/dGvLMa

確かにそのような境地を体験する者は大勢いるとは存じますが、仏教として必要となるのは、菩提心と慈悲心の滋養と共に智慧と福徳の修習となって参ります。頑張って参りましょう。

川口英俊 合掌

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有り難し
おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

経験を認識に置き換えることが思考に舞い戻ることになる

確かにそれは得られた、体験されたのでしょう。
ですが、そこで認識、分別を働かせることで、思考の世界にとどまる事を選択するようになるのです。実感、感受、それになっている時には、分別に移行されていないままのそれとして、確かにそうなっている。
そこで、思考のペダルをこがないままにしていてください。
そっち(思考)に住さなくなります。
まさに住する所無くして、その心を生ず。
とどまり、定めを持たないことです。
分析、分別、観察する自分を働かせないで解雇してください。
それが最後の壁です。
思考を愛すべきか。
事実を愛すべきか。
思考に住するか。
事実に処するか。
この文字も見ながら、そっち(アタマ)に行かんことです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

川口さま
いつもご回答いただきありがとうございます。
シャンカラという言葉は初めて聞きました。なるほどインドの哲学のことなんですね。仏教における理解とはかけ離れたもの、というのも知りませんでした。
菩提心と慈悲心の滋養・・大変難しく思ってしまいました!
浅学非才の身で申し訳ありません。。

丹下さま
いつもご回答いただきありがとうございます。
そうですね、まさしく認識や分別が働くのを感じています。誰が感じているのでしょうね。
最後の壁?かは分かりませんが、プロセスに終わりは無いような、なんの根拠もなくそう感じています。
私は観察者であり、同時に観察される側でもありますね。
認識に置き換えないように、、とするとまた認識が起こりますが。笑
静かに見つめたいと思いますね。

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