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しなくてもよかった苦労をしたとき

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有り難し有り難し 26

しなくても、いいのに、
自分が勝手に自己犠牲にさせて、
無駄な苦労を自分にさせてしまったとき、
どう自分を、慰めたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

次行こう、次。

 今晩は。お若い方ですね(イヤ私も若い積もりなんですが)。今時、「無駄」ということに関して、みなさん非常に厳しいですね。これって、「お得!」を至上とするテレビと対になっているのかしら?
 さて、「生き物は無駄が多い」と知ること。これが私の回答です。
 脳細胞って、持っている2割程度しか使っていないって、聞いたことありませんか?2割でも充分生きていけるのだけれど、あと4倍もあるのです。脳みその8割は「何故あるのか分からない」ようです。
 今時は少ないかも知れませんが、子どもが玩具売り場でダダこねていることありますね。しかし、それで折れてしまう親はアウト。賢い親なら、子どものダダに付き合いません。「ダダこねは無駄?」。
 もうすぐプレゼントシーズンですが、たくさん行き交うプレゼントのうち、効果を発揮するものは何割ぐらいなのでしょうか。半分?では残り半分は無駄?
 学生さんたちは、期末試験直前。勉強したうち、テストに出るのは半分以下でしょう。では残りは無駄?

 生きてゆくことは、無駄をたくさん抱えていることなのです。機械とかパソコンとか経済とかでは、無駄=ダメなのでしょうけれど、生き物は無駄を抱えていないとギスギスしちゃってダメです。
 でも多分、後悔に繋がるような無駄は、減らしていけます。それは、「これは無駄だったか!」と気づき、「こういうやり方もあったな」と学ぶ事によります。つまり、逆説的ですが「無駄を重ねることで無駄を避けられるようになる」のです。
 これ、脳科学でも言われているようです。60代の人間の脳が優れているのは、「適切な脳内ネットワーク」ができているからだろう、というのです。もちろん「歳を取れば良い」ではありません。「長く使うことによって、たくさんの経験を積む」という意味です。
 なので、「あの時は…悔しい悔しい」と言って、いつまでも同じことをグルグル考えているのが、多分一番の無駄です。新しい経験を積み(無駄を含む)、行動パターンを洗練させてゆくことを、目指すとよいと思います。

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊さんに限らず、二足のわらじを履くことで、話に幅が出るはずだと考えて、はき続けています。子育てとか家族論とか考えつつ、でも仏教って個人のものだなぁと感じたりします。

それも学びである 授かりである 頂きである

無駄な事というものを建てて散るから、それがツマランものに変わる。
ボランティアは無駄事ですかな?
今やっていることを詰まらないものに塗り替えるのはいつでも人間の思考です。
今回の事をはじめ、これからもあなたはこういう思考のペンキでそれを悪いもの、無駄なこと、損したなぁと思うように思いのペンキで塗りたくってしまう事があるでしょう。
それを控える工夫をして見ましょう。
ああ、いつもこうやって思いで自分が悪く扱っていたのだなぁ、と。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

無駄を無駄にしない

人がしなかった経験は
自分だけの実績になる。
むしろ宝を得たと知りなさい。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます(^^)
そうですね。
闇雲には走らないようにしますが、
次に向かっていきます。

この苦労は、人生の恥だと思っていましたが、わたしがそう思わせてるんですね
ありがとうございます

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