新興宗教にまつわる体験、呪いについて
両親がとある新興宗教に入信しています。(仏教用語を多用していますが、仏教系ではない団体です。)
母はわたしが6才のときに入信し、10才のとき父を説き伏せて家族全員を入会させました。
初めて団体の合宿に連れて行かれた時、嫌でたまらなかったのを憶えています。
山の中の合宿所へ向かうには1日に数本しかないバスに乗らなくてはなりませんでした。
母の家を出る支度が遅れ、バスを乗り逃しそうになったのは、ご先祖様が引き止めて下さっていたのではないかと今では思います。
しかし母はタクシーを捕まえてバスを追いかけさせ、結局合宿所へ行けてしまいました。
幼子を連れハイテンションかつ必死な様子の母に、タクシーの運転手が薄ら笑いを浮かべていたのを思い出します。
合宿所では、環境問題に関する、小学生には刺激の強い映像などを見せられ(悲惨な姿の動物や、病気になった人の生々しい患部の写真など)、頭がクラクラし、ぼうっとしてしまいました。
強いショックで意識と無意識の境目が曖昧にさせられ、いわゆる変性意識状態になったのではないかと思います。
その後悪夢を見るようになったり、人へ猜疑心を持つようになったりと、悪影響がたくさんありました。
紆余曲折あり、30才のとき、わたしはやっと母から許可をもらい、脱会の手続きをとりました。
しかし母は今もその団体でわたしのことを色々言い、その団体の会員何名もで祈ったりしているようです。
その団体がそうかは分かりませんが、新興宗教団体には、脱会者へ呪いの祈祷をするところもあると言います。
母は団体へ入ってから異様に物事が思い通りに進むようになりました。(敵対していた姑は癌死し、舅は母を諌めるのを諦め、家庭では父との権力争いに勝ち、母自身は殆ど病気ひとつしていません。)
ただ、人相はたいへん悪くなりましたし、昔は不器用ながらも可愛いところがあったのに、全く傷つかなくなったかわりに、温かみもなくなってしまいました。もっとも、本人は、他人に圧倒されることがなくなって満足しているようです。
前置きがたいへん長くなってしまいましたが、こういった新興宗教団体の加持祈祷というものには、気休めや暗示以上の何かがあるのでしょうか。
悪い影響がないか心配しております。
御坊様方におかれましても、ご意見の別れる問題かとは存じますが、ご回答頂れば幸いに存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
呪いはあるぞ〜〜〜
呪われたと思う人は、指の逆剥けひとつにも呪いのせいだと思い込む。
呪われたと思う人は、通り雨に降られただけでも呪いのせいだと思い込む。
呪われたと思っている人は、メシに髪の毛が一本入っていただけでも、たまごの殻が一欠片入ってしまっただけでも、熱すぎる味噌汁でちょっと舌をヤケドしただけでも、近所の犬にちょっと吠えられただけでも、靴下にちょっと穴が開いただけでも、シャーペンの芯がちょっと折れただけでも、ボールペンのインクがちょっと切れただけでも、咳やくしゃみがちょっと出ただけでも、、、、呪われているせいだと思いこむ。
つまり、「ああ、呪われた」と思うところから呪いははじまるんだ。
ということは、「呪われた」なんて思わなければ呪いははじまらないんだ。
実際に、呪いは相手の気づかないところでこっそりやっても効かないんだよ。
夢は夢でしかない
ご相談拝読しました。
これまでずっと大変な思いや経験をされてこられたのですね。そしてあなたのこれからの人生を大切にするために、これまでのことと向き合おうとされているのですね。
さて、新興宗教の全てがオカシイ・危ないというわけではないでしょうし、なんらかの問題があるにしてもそれが教義にあるのか、団体運営にあるのかという違いなどもあるのでしょう。
しかし、あなたがお母様の信仰によって辛い思いをされたのは事実であり、その影響がいかに大きいものであったのかはあなたのこれまでが証しているのでしょう。
現代の解釈で言えばそれは心理的虐待などの虐待になるでしょうから、お母様の信仰自体に言及せずとも、信仰により影響を受けたお母様からあなたへの態度・言動はけして肯定されるべきものではないと感じます。
真宗大谷派でカルト問題について考えるにあたり、カルト性が強い団体の特徴として次の4つをあげています。
http://www.higashihonganji.or.jp/oyc/cult/file/pamphlet5.pdf
1 過度な集団アイデンティティ
教祖に従い教団に所属すること以外に自分の存在意味を持てなくなる。
2 個人生活の剥奪
個人として生活や社会生活が奪われる。
3 内外の批判封鎖
集団に対する批判を自分の中に持たないようにし、外からの批判も許さないようになる。
4 絶対服従
教祖や教団に自身の判断や思考・行動を全て委ねる。
読んでお分かりの通り、宗教本来の役割が人間の思いを開いていくことで思いを超えて事実に目覚めていくことを促すものだとするならば、これらはその逆にいよいよ自分の思いの中に深く固く閉じていってしまう在り方です。
つまりあなたが
>気休めや暗示以上の何かがあるのでしょうか。
とおっしゃりますが、この「気休めや暗示」こそが恐ろしいものなのです。
事実として実際には、お母様について異様に物事が思い通りに進んでいるということはないのです。
あなたの事もそうですし、お父様や他者からの思われ方もそうでしょう。
でもそれに目を向けず自己の思いの中に閉じこもることで救われる様に錯覚するのです。そのことに気がついた時の衝撃は物凄いでしょうし、気づかないままが幸せであるともけして言えません。
夢の中でいかに幸せでも事実ではないように。