一切皆苦と苦行
22歳、京都で学生をしています。
三年前頃から仏道に少しずつ傾き始め、自分なりに歩みを進めているつもりです。
良き師に恵まれて、指導の元『自己理解』を通じて心の深くに居座る嫉妬心、罪悪感、劣等感、虚栄心などと向き合うことを続けています。
それから少しして今まで『楽しい』と単純に思ってた事がどうしても『悲しく』も見えてきてしまって辛いのです。
楽しくないってことはないんです。
それでも
楽しいお祭りもいつか終わってしまう。
若くて健康な肉体をどれだけ手放したくなくても、何か大きい力が流し去って行く。
目の前の大好きな人も永遠ではない。
お釈迦様が残した一切皆苦。
自分の師はそれを「そもそも自分と向き合うこと何なによりも苦しいのに、体や精神を痛みつける『苦行』は逃げになっている事がある。自分と向き合う事を『苦行』と言うのであれば、それが修行」と。
けどそういった『依存』があるからこうして今まで生きてこれた気もするんです。
いや、生かされてきたという表現の方がいいのかも知れません。
何かに必死にすがり付くように生きてきました。
しかし自分で立って歩いていきたいです。
今の自分の理解として
『楽しい』だけのいいとこ取りはできない。
『楽しさ』に付随する『苦しい』『悲しい』ことも一緒に受け入れないと進めない。
勿論生きていて自分の中に他人や自分に対する抵抗感や投げ出したくなるようなこともあるが、その『やりたくない気持ち』『逃げたい気持ち』がそのまま仏からの自分に気付くヒントであること。
皆様が修行をしてこられた上で、毎日されている上で参りそうになる『恐怖』と遭遇したことはありますか?
お坊さんの心の中を知りたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
恐怖ってなんだろう
難しいことは言えませんが、何事にも表裏がある、右があるから左、上があるから下がある。暑いから寒いが分かる。苦しいから楽しいが分かる。両面を素直に受け取ればいいだけのことで、一方だけを取り上げても片手落ちになるのでしょう。
恐怖は、相手の存在が分からないから起きてくることで、見極めれば楽になる。
真っ暗な小屋に入り、触れたものがへびだと思い込み恐怖の時間を過ごす、しかし、明るくなったら単なる縄であった。思い込みで、自ら恐怖を作る・・・のではないでしょうか。
一切唯心造
素晴らしいですね。
もっともっと、自己を観つめてみるのも良いかもしれもません。
その前に、一度、立ち止まって観ては、いかがでしょうか。
楽しい も 苦しい も 辛い も 悲しい も 虚しい も 恐怖 も
どこで、おこっていることなのか。。。。
一切唯心造
あなたのココロ です。
そして、自分の脚だけで立ち、生きていくこと。。。。
誰も出来ません。。。。
ここからの応えは、御自身で。。。。
苦しみ や 悲しみ から、、、、
「自然法爾」、風に、雨に、嵐に、あるがままに受け止めて生かされている事を感じ、この身体の寿命いっぱい生きていきましょうよ
質問者からのお礼
鈴木海洋様
楽しいことだけを追求することは理に適わないし、自分に起こる苦しみだけに焦点を合わすのも違和感を感じます。
暗闇の蛇と縄ですか。。
するべき事から遠ざける為に態々自分で恐怖を作り上げて振り回されているかもしれないと気付けました。
ご縁に感謝です。
長谷雄蓮華様
返答ありがとうございます。
一切唯心造
心の揺らめきは支配すれば良いとずっと勘違いしていましたが、まず心がどう揺れ動いているのかを立ち直って観ることに専念しようと思います。
理解が進むほど自分が様々なモノや人に生かされ、活かされているなと感じるばかりです。
このまま自分のペースで道を歩んでいきます。