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生きる上での本当の苦しみを教えて下さい。

回答数回答 2
有り難し有り難し 65

私はきっと周りから普通に見えると思います。
でも精神がおかしいのです。
生きたい、けど死にたい。
その感情が尋常じゃなく波のように押し寄せる。
死にたいのか、逃げたいだけなのか、ただ弱い人間だからこういう思考になるのか。
お坊様方の色々な体験談を聞きたいです。
人生の参考に。
私は今、煩悩を勉強しています。
出家も調べました。
でもまだまだ私には覚悟が足りません。
うまく説明できません。苦しいです。助けてください


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

心はコロコロと揺れ動きます

初めまして、今日は。

心とは・・常に一日に何百回とコロコロ変わります。だから・・心何だと思います。仕合せそう・・と思う人にも、誰にでも”悩みや辛さ”があります。

お寺の紹介にも記してありますが、30代初めに妻を看取り、長男の重い障がいが見つかり父子家庭になり、これでもか・・と嫌になるほどの苦しみを与えられました。神も仏もいない・・と生きよう!もう駄目だ・・と狭間を追い詰められ命を絶とうと僅かに繋がっていた細い糸が千切れ、命を絶ちました。あの世とこの世をさまよって・・この世に引き返されました。結果、朦朧とする中で・・父や子ども達を見て我に返り、もっと苦しみました。

どん底に落ちるところまで落ちて・・這い上がっては落とされ・・・そして、サラリーマンからお坊さんになりました。

命を絶とうとした事、苦しかった出来事などは、無駄じゃなかったこと。その経験を活かされる時が来る・・そう、出家をしご師僧さまと得度を受ける前日にお話して頂けました。そして今、その経験が活かされて求めていた答えが・・時空を超えてなるほど・・・そう知る事が出来て来ています。

人生とは、長い冒険旅行・・そう私はいつからか思うようになりました。そして宿命は変えられないけれども、運命や人生はいくらでも描き変えられる事を知りました。45になりサラリーマンから未知の世界に挑み、全て一から開拓をして歩んでいますが、捨てない限り夢は逃げないことや、人生や運命を変えられる!その事を実践して表す事により・・少しでも難儀されている方々の生きる希望となれればうれしいです。

人は、煩悩や我、欲にどうしても大切な心をとらわれがちになってしまいます。周りと同じように・・頑張らないと!そう、想う事を私はやめました。私に変わる人は仕事ではそうであっても、人生などでは代わる人はいません。自分らしく、自分の良さを出して、過去でもない、明日でもない、二度とない今を悔いのないように生かさせて頂いています。

この身体には何百年と続く思い、願い、父母の重いが沢山込められています。生きる意味も必ず分かる時が来ます。

大切な心をとらわれず、奪われず、あなたにはあなたの良さがあります。

あなたらしく人生と言う冒険旅行を仕合せに歩めますように、心からお祈り致しております。

合掌

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有り難し
おきもち

皆様、初めまして。ストレスの多い現代・・お寺とはご葬儀や法事のみではなく、悩みを相談し気軽に参拝出来る”心のよりどころ”であって欲しい・・・その願いを叶えさせて頂きました。仏縁を頂き真言宗の小さな手作りのお寺を開山させて頂き4ヶ月が過ぎました。妻を脳腫瘍で看取り、東日本大震災で彼女を失い、父を心筋梗塞で看取り、障がいのある長男と健常児の次男を育てる父子家庭の父、押し寄せるこれでもか!と来る障害。・・どうにかなるさ!と思考を変え、今日に至っております。一切衆生をお救いする事、それは経験させて頂いた出来事があるからこそ、その痛みがわかるからできるのことです。迷わず、負けずぶれず道一筋に、あなたの希望ある光輝く人生を楽しめますように。濃霧も時がたてば天晴の如く見通しが良くなるように人生の羅針盤となり皆様に寄り添い、慈悲の回向の光を届けさせて頂きます。 開かれたお寺と志を忘れないよう挑み続けます。合掌 礼拝

その心を苦しみではない方向へ向かわせる決意を

四弘誓願文の第二句めに次のようにあります。
「煩悩無尽誓願断」
煩悩は作ることがないけれども、これを断ずることを誓願す。
この志が無ければ心は変わりません。
お悩み相談電話も毎日のようにかかってきますが、自分で自分の煩悩を心底断ち切ろうと志すことが無ければ他人任せ、自分の習慣任せ、治らない理想を追いかけて人生むなしく過ごします。
煩悩とは何か。
読んで字のごとく自身を煩わせ、悩ませる思いです。
誰がそれをやっているか。
自身の心の運転は自身以外にできませんので、当人です。
何をもって煩悩となるのか。
自身が内なる精神作用を私化させることで、発生時点では無害であった精神作用が煩悩ナイズします。
あなたの中のあなたでしか操作し得ない想念作用をあなたが責任をもって煩悩にさせまい、と誓願する志。それが無ければ煩悩は煩悩のままなのです。
煩悩は実は心の中で煩悩ナイズされる瞬間があります。
あなたが求めるべきは自分の煩悩に向き合い、完全に無害化無毒化を成し遂げた修行の完成者の教えではないでしょうか。
念ずれば花開く。
求めれば必ず手ごたえあり。
私たちは仏陀、祖師がたのおかげで自分の煩悩を断ずることができる勝縁に恵まれております。
ネットで手軽にポチでGETしようなどどは決して思わず、ネット越しの情報ではなく真実の仏法を求めるべく、決心、決意、志が無ければ、変えられる人生も変わらんと思います。
ガンになって内科でイイ人は内科では治らず死んでいきます。
私たちはいずれ死ぬという大きな病を抱えています。
それを内科でええわ、という姿勢でいるよりもより大きな決心、決意を持って仏道を求めることです。
いずれ死にゆく身。
その死ぬという病や苦しみから救われる確かな内容を持つものが仏教であり、心底救われる内容を持つものが「正伝の仏法」「正法」というものです。
その為に仏教は存在し、お寺が存在し、修行道場があり、仏法の指導者たちは存在するのです。
ただし、道元禅師も示されるようにいつの世も邪師も多い世の中です。
王道の人、仏法を真に明らめられた明眼の指導者に導かれて仏法を明らかにされることで、無尽なる煩悩は必ず断ち切ることができましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。
目の前に起こる全ては自分に必要だからなんだ、と言い聞かせて生きていますが弱々しい私が出る日があります。
お言葉ひとつひとつを心にとどめ、毎日を生きていきたいと思います。
でも、また弱い私が出てきたらここで吐き出させて頂いてもよろしいのでしょうか?
いつか、お寺の方にお伺いできたら幸せです。その時はまたお話させてください。笑顔でお会いできるよう頑張ります。

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