悪いことをしたら地獄におちるの?
私は小さい頃から悪いことばかりしてきました。
万引き、キセル、暴行、詐欺、営業妨害、公務執行妨害などなど。
逮捕歴はありません。
罪を償ったことはありません。
もちろん、時には誰かのために行動したこともあります。
でも自分をよく見せるためだったり、たまたま気分がよかったりなど、本当にその人のためを思ってしたことはほとんどないように思います。
いいことと悪いこと、どちらが多いかというと圧倒的に悪いことです。
こんな私は死んだらどんな処罰が待っているのでしょうか。
例えば自殺した場合、その処罰は重くなるのでしょうか。
よく「死んでお詫びを」って聞きますけど、自殺したら軽くなるのかなとも思います。
でもそれってやっぱり自分の罪を軽くしたいということだから自殺したら重くなる?
どうなんでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
おつとめ、ごくろうさまです。
"こんな私は死んだらどんな処罰が待っているのでしょうか"
"例えば自殺した場合、その処罰は重くなるのでしょうか"
心配するな。
キリスト教では一度地獄に堕ちると永遠に出て来られないそうですが、仏教の教える地獄の場合、最低最悪に残酷な地獄の底の底にブチ堕ちても、一定期間ガマンすればちゃあんと出てくることができます。その刑期は、経典に出てくる表現をガチの物理学的に計算してみると、約682京1120兆年くらいだそうです。
やりたい放題やっておいて、自殺してちゃちゃっと御破算にしてしまおうなどという横着者には、期限付きなだけでも贅沢なくらいだ。
がんばってください。
ちなみに、私ならこんな天文学的数字の年数を地獄の底で苦しむくらいなら、残りの最大数十年の生涯でしっかり挽回するなり、地獄行きを確実に回避できる法を求めるなり、とにかく尽力するけどね。
<追記>
大変良い質問です。
地獄行きの回避については、宗派によって見解が大きく分かれるところです。あなたが疑問に思ったまさにその事こそが、仏教の命題であり醍醐味でしょう。
ちなみに親鸞さんは、
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」
と教えて下さいました。あなたのおっしゃる通り、せっかくよかれと思っていいことをしても結果として悪いことをしてしまう事もある。せっかくよいことをしていても、あなたのようにどこかでカウント云々という計算が挟まる。もし純粋に善行が積めたとしても、しょせん人のできる善行なんてものは、髪の毛を1000分割して、それで大海の水を全部汲み上げようとしたときの、ほんの2,3滴分にしかならない。だから、阿弥陀仏から与えられた「南無阿弥陀仏」と唱える【称名念仏】でしか、地獄行きを回避できる【善行】はない、と浄土真宗では教えています。
他宗派で教えるところについては、専門外につき正確さに欠くと悪いので、ここでの言及は控えたいと思います。
「地獄が恐いから悪い事をしない」それで良いんです
こんにちは
地獄については過去にもたくさん問答があるので読んでみてください。
地獄は、地獄絵図などにとても恐いものとして描かれていますね。あのような所に行きたくないですね。
地獄は、悪い事をした人を行かせるためではなくて、「恐いから行きたくない」と思わせるために存在していると思います。地獄のことを知ったら、もう悪い事はしたくないですよね。地獄が恐いから、良いことをして悪い事はしないという取引的な気持ちで行動することになると思います。最初はそれで良いと思います。そのうちに良いことをすると気持ちが良く、悪い事をしているときは気分が悪いことに気がつくと思います。そうすると取引的な気持ちが消え、自然に良いことだけをするようになると思います。
過去にしてしまった事は仕方がありません。反省してもうしないようにしましょう。hasunohaでも何度か紹介していますが、お釈迦様の弟子にアングリマーラという方がいて、出家する前は殺した人の小指を切って首飾りにするという狂気的な殺人鬼でしたが、反省しお釈迦様の弟子になり、その後は殺人をしていません。仏弟子として「生まれかわった」のです。あなたも今日から悪い事をせず良いことをする人に生まれかわってください。
悪いことをしたら、地獄に落ちるが。
地獄には諸説ありますが、八大地獄とそれぞれに十六小地獄がありまして、あわせて、百三十六の地獄があるそうです。
八大地獄の一番目が等活地獄(とうかつじごく)で、これは殺生(せっしょう)を行ったものが落ちるところです。
自分自身を殺生したとしても、法律上の罪には当たらなくても、仏教的には罪ですから、ここにまず行くと思います。
第二が黒縄地獄(こくじょうじごく)ですから、殺生(せっしょう)に加えて、偸盗(ちゅうとう 盗みのこと)が加わりますから、あなたの場合、盗みを行って、自殺したとしたら、ここに落ちることになります。
更にいろいろ罪が積み重なっていくと階層が深くなって、一番深い無間地獄(阿鼻地獄とも)に落ちると、一説には349京2413兆4400億年、また一説には転落院師の言う通り、682京1120兆年ここにいなくてはなりません。
しかし、その後は六道輪廻(ろくどうりんね)により、六道(ろくどう、りくどうとも)のどこかに生まれます。
そんな長い期間責め苦を受け続けるなら、私も転落院師の言う通り、他に行きたいです。
<追記>
地獄行きの回避については、法然上人はこう教えています。「生けらば 念仏の功つもり 死なば浄土に参りなん。とてもかくても この身には 思いわずろう ことぞなき」と。地獄必定(じごくひつじょう)とか十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)の法然坊と自覚していた法然上人がです。転落院さんと浄土真宗と浄土宗と宗派は違えども、同じく浄土門なので、似ていますね。私も他宗派の見解はわかりませんので、それについては、控えます。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
読んでいてさらに疑問が湧きました。
「地獄に行きたくないから挽回する」
「地獄に行きたくないから確実に回避できる方法を求める」
地獄に行きたくないから、◯◯をする、、、というのは自分本意な感じがするのですが「地獄に行きたくないからいいことをする」というのはいいことした、ことにカウントされるのでしょうか?
逆にいいことをしようと思って(よかれと思って)したけど、結果相手に迷惑をかけてしまった、(悪いことになってしまった)などというときは悪いことにカウントされてしまうのでしょうか?
本当に心から相手のことを思って行動するのと、自分がいい思いをしたいから行動するのと、同レベルとは思えないのですが、仏教の世界ではそのあたりはどのような考え方なんでしょうか?
3人の方、お忙しいところありがとうございます。
まとめてのコメントで申し訳ありません。
私には難しくてまだ理解できていない部分もあるのですが、
「宗派によってちょっとずつ違うけど、悪いことをしたら地獄に落ちる」
「長い時間修行を受けることになる」
「想像を絶する期間そこにいなければならないけど、いつか終わりはくる」
とざっくり解釈しました。
きちんとした解釈にはまだ時間がかかりそうですが、色々調べた理してみようと思います。
ありがとうございました。