死にたい。死ぬほどツラい思いをしながら生き続けて何の意味があるのでしょうか?お坊さん教えて
幼少期から現在に至るまで、何一つとして良い思い出がありません。
人に褒められることもなく、愛してもらっているという感覚もありません。生きていることが死ぬほどツラいのです。こんな思いをしてまで救いのないこの世に留まる意味はあるのでしょうか?死後の世界に救いを求めることは罪なのでしょうか?
私は幸せだ!と思えなくても言ってください
死んでもまた同じようなことの 繰り返しになります。だから、死んでも楽にはなりません。だから、死んではいけない。
それがどんな死に様であっても、お迎えがきたものは今世のお勤めを立派に果たしたことになる。
誰にも看取られない、身寄りもない、友だちもいない、孤独で寂しい死に様でも、神仏はよくぞ立派に生きたと、愛でてくだり、お迎えされることでしょう。しかし、自死の場合、神仏はバチや特に試練を課すことはないでしょう。
優しく静かに、もう一度、おっしゃるように思います。なぜなら、因果があるからです。
またやり直すくらいなら、この世で、現世で生き抜くこと。
これがあなたにとって一番楽な道です。
あなたは大勢の方から、生きることを願われている大切なお方なんです。
誰でもが楽しい人生を歩んでなんかいませんよ。
ともすると、不平不満だらけの自分、人を非難批判せずにはいられない、
そんなお粗末な自分を立て直して、やり直し、楽しいように考え方を変えていくんです。
幸せに生きるためには努力がいります。努力してください。簡単なことです。私は幸せだ!私は生かされていると思えなくとも言ってください。
半年後、一年後に、少し生きることに希望が見えているはずだから。必ず見えます。あなたの幸せのために真剣に祈るから、受け止めてください。
人生は後戻りのできない旅路です。ゴールは誰にもわからない。
しかし、南無阿弥陀仏のお名号を引っさげて生きるだけです。
私は7日間あなたのために、あなたの幸せのために真剣に祈るから、受け止めてください。
追伸
死にたいほどの辛い想い。お気持ちわかります。でもいいこともあったはずです。生きて欲しい!祈ります!檀家さんからです。
私も皆さんに励まされ生かされてます。あなたも生きてください。祈願します。絶対にいいことがたくさんあります。想像もできないほど、辛い想いをされたあなたなのだから余計に幸せになって欲しい。
そんなあなただから阿弥陀さまの慈悲が届くんです。届かないはずがありません。あなたは幸せをつかむお方なんです。大丈夫。南無阿弥陀仏
元の問答:7日後に自殺します
あなたが亡くなった後でなく、生きているときに念仏を
あなたが亡くなった後で私達が念仏を唱えることなんかより、あなた自身が生きている時に自ら念仏を唱えることの方がよほど大きな意味や価値があります。なぜなら阿弥陀仏は念仏を唱える人を救うからです。
念仏を唱える人をその人の命が終わる時に極楽浄土に連れて行くのです。
お近くの浄土宗か浄土真宗のお寺で時間の許す限り、阿弥陀仏に聞こえるようにしっかり声を出して、ただひたすらに念仏を唱えてください。
あなたに阿弥陀仏の加護があることを祈ります。
南無阿弥陀仏この世は無常。何の希望もない。
しかし、それすらも変わる可能性があるのです。
なお、この世は無常です。全てのことは常、つまり一定ではありません。全てのことは移り変わるものなのです。お釈迦様の説いた真理です。時計の針が常に動くように。
あなたに子供時代があり、いまの姿があり、いつかは骨になるように。
あなたの信じた人が心変わりをすることもまた無常ゆえなのです。
しかし、無常だからこそ変わることもある。
今のあなたには何も希望が無い。しかし、それすらも、変わる可能性があるということです。今のあなたも、今後変わる可能性があるということです。
これまでの自分は死んだと思って、明日からの自分は新しい自分と思って、違う生き方をしてみませんか。誰もが希望があるから生きているのではありませんよ。
私達は周りの様々な支え、食事で頂く多くの命によって生かされているのです。この生かされている命を、支えてくれている周りの人のために、頂いた多くの命のために、使うことを考えてみませんか。
元の問答:7日後に自殺します
あなたの意志とは無関係に、命はうごいている
まず、息を止めて、何分持つか、123…息苦しいでしょう。
誰が息をしてるんでしょうか?アナタ?
だったら、自分の意思で道具も何も使わず即座に息や心臓も止めてみてください。あなたの意思とは無関係に、息を吸ったり吐いたりしてるのは、本当にあなたですか?
あなたなら何故自分の意思で、息一つも止められないのですか。
つまり、こんなクズ、と言っているのはあなたの頭のハタラキで、あなたの本当の主人公は命だということ。
「こんなクズ」とまで自分を自ら虐げるような可哀想な心境に陥っているのは、あなたの本当の主人公であるオイノチ様に逆らって本心が嫌がることばかり無理してやってきたからです。自分の中に本当に聖なるもの、命を見出してみてください。命は自分の意思やエゴとは無関係な在り方だからです。
自殺がイケないということを仏教は言ってるんじゃない。
自分の意思とは無関係に動いてくれている、せっかく授かったその聖なる命。
自分の意思とは無関係に動いているからこそ聖としか言いようのないその尊い命を自分の身勝手で勝手に左右しようとしてはいけない、そのいのちに対するバチアタリな我見とい自分中心なものの考え方こそイケないと言ってるだけです。
だから、あなたが自分の命を断つようなことや、クズなどと自分を卑下すれば命も名も泣く。
本当に自分を大事にすることです。本当に自分を大事にするという事は、考え方や行い方、しゃべる事、このような場所で書き込む言葉もやさしくするべきです。
自分が生み出す行いも、言葉も大事に丁寧にしてみてください。
丁寧とは、自分が「イタくない」ソフトなレベルをいいます。
世間や人が冷たいなら、自分だけは、自分に優しくしてもいいんじゃないでしょうか。
元の問答:自殺してはいけない理由
許すも許さないもない
自分を許せない、その価値観は自分が創ってるもの。
今のあなたは目の前の自分自身の姿を嘆いているだけ。自分が悪いと思うところだけが目について、自分の素晴らしさをすべて見失ってる。
全てに優れてる人などいない、また全てが劣っている人もいない。そして優れているも劣っているも他人との比較で何の意味も無い、仏さまの目から見たらその違いはほとんど意味は無い。
前にハスノハのある方が言っていた。ウサギとカメの競争でなぜカメは勝ったのかと、それはカメはウサギを気にせずただ自分自身を見詰めて自分のペースで歩んだからだと。
自分の生き方は他人には代わってもらえない。他人の意見に振り回わされても他人があなたの人生を代わってはくれない。だから自分の生き方に自分が許すも許さないもない。
間違ったと思ったならそこで軌道修正すればいい、間違いかわからなければ立ち止まって自分なりに答えが出るまで考えればいい。
自分が自分を許すも許さないもない。阿弥陀如来様からすれば人生の正解も間違いもない。どちらも同じようなものだ。
そして間違えた人も必ず救ってくださるという。自分自身の人生を勘違いで許せないと思い込み、自死などして欲しくない。死んだらハスノハのお坊さんみんなが悲しむ。
1年後勘違いで死なないでよかったと思える日が来るのだから。一緒に生きていこう。
元の問答:自殺
生きることは死ぬこと
死ぬという道しかない。それは、わたしにとっても同じことです。
生きることは死ぬことですから。ただ、それがお互いいつになるかはわかりません。
あなたが死にたい死にたいと願いながら生きている、
その最中、心臓のやまいでぽっくり死ぬこともあります。
それを止めることはだれにも出来ません。おまかせするしかないのです。
「わたし」という「我がまま」な存在を捨て、すべてを自然にまかせるしかないのです。
自殺をする前に、まずはこころの中にいる「わがままなわたし」を殺してください。身体を傷つけるのはそれからです。もし、ナイフを手にあてたとして、血が出ますが、なぜ血がでるのでしょうか?
身体を護るために、血は出ます。
もし首にロープをまわしたとして、大量の体液があらゆるところから流れでますが、それはなぜでしょうか?
身体を護るため、すこしでも身体を軽くして生きながらえるためにそれは出るのです。
身体は、「まもるため」に存在しています。
なにを?こころをです。こころも、本来であれば身体をまもるために機能するものです。
しかし身体もこころも「病い」にかかります。病めば、正常に機能することはありません。
いま、本来であれば「生きたい」はずのこころが「死にたい」となっているのは、「病い」にあるからです。
今日という日は「わがままなわたし」を殺す日とする。
御自身では気づかないかもしれませんが、あなたの文字ひとつひとつから「生きるいのち」を感じるのです。
しかし、それとは逆の思いが生まれてしまっています。「病い」の状態です。
病いとなったら、我々もそうですが「病院」に行きます。
まずは、今日という日は「わがままなわたし」を殺す日とし、明日、病院をたずね心療を受けて頂きたいと存じます。身体を傷つけるのはそれからです。
それから、おこさまの将来を願っても、自死した親を抱えた子の苦しみに思いをはせることはなさそうですので申し上げますが、生きていれば悲しみにあるお子さんを抱きしめることが出来ても、死ねば「見守る」だけしか出来ません。
つらく苦しいのは、あなたではなくお子様です。だから反抗するんです。それは「正しいこころ」です。あなたに安らぎあれ。幸いあれ。
元の問答:今日の夜死にます。
出会いとは、『出なきゃ会わない。』『出なきゃ会えない。』
贈る言葉はズバリ「出なきゃ会わない。」「出なきゃ会えない。」です。
一年間、結婚相談所に登録し、いろんな人にお会いしたということですが、良い縁は結ばれなかったとのこと、残念ではありますが、がっかりされないことをオススメします。その出会いを求める姿勢はとても大切であると同時に素晴らしいと思います。あまり「こじらせる」とがっかりするかもしれませんが、暫く、肩の力を抜いて、モチベーションが上がらないのであれば、休むことも必要だと思いますが、後ろ向きにならず、前向きに休養してみてはいかがでしょうか。
「出会い」と一言で言っても良い出会いや、嫌な出会い、健全な出会いや、不適切な出会いと様々です。必ずしも全てが「善縁」とは限らないのが世のならいです。
もうすぐ春です。新しい年度を迎えます。季節とともに、質問者様の気持ちも切り替えて、新しい出会いを期待してみてはいかがでしょうか。
温かくなってきたら思いっきり、オシャレして、お出かけしましょう。
自分から外に出なければ、「出会い。」はありません。
今は、ちょっと休憩して、ココロのエネルギーを満タンにしたら、新しい出会いの旅に出かけましょう!あなたにも春がやってくることを心よりお祈りいたします。気の合う友達や未来の結婚相手、早く巡り会えるといいですね。「出なきゃ会わない。」「出なきゃ会えない。」合掌。
元の問答:うまくいかない人生を終わらせたいです