hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
死について
79667views

死にたい。死ぬほどツラい思いをしながら生き続けて何の意味があるのでしょうか?お坊さん教えて

幼少期から現在に至るまで、何一つとして良い思い出がありません。
人に褒められることもなく、愛してもらっているという感覚もありません。生きていることが死ぬほどツラいのです。こんな思いをしてまで救いのないこの世に留まる意味はあるのでしょうか?死後の世界に救いを求めることは罪なのでしょうか?

私は幸せだ!と思えなくても言ってください

死んでもまた同じようなことの 繰り返しになります。だから、死んでも楽にはなりません。だから、死んではいけない。
それがどんな死に様であっても、お迎えがきたものは今世のお勤めを立派に果たしたことになる。
誰にも看取られない、身寄りもない、友だちもいない、孤独で寂しい死に様でも、神仏はよくぞ立派に生きたと、愛でてくだり、お迎えされることでしょう。しかし、自死の場合、神仏はバチや特に試練を課すことはないでしょう。
優しく静かに、もう一度、おっしゃるように思います。

なぜなら、因果があるからです。
またやり直すくらいなら、この世で、現世で生き抜くこと。
これがあなたにとって一番楽な道です。
あなたは大勢の方から、生きることを願われている大切なお方なんです。
誰でもが楽しい人生を歩んでなんかいませんよ。
ともすると、不平不満だらけの自分、人を非難批判せずにはいられない、
そんなお粗末な自分を立て直して、やり直し、楽しいように考え方を変えていくんです。
幸せに生きるためには努力がいります。努力してください。簡単なことです。

私は幸せだ!私は生かされていると思えなくとも言ってください。
半年後、一年後に、少し生きることに希望が見えているはずだから。必ず見えます。あなたの幸せのために真剣に祈るから、受け止めてください。
人生は後戻りのできない旅路です。ゴールは誰にもわからない。
しかし、南無阿弥陀仏のお名号を引っさげて生きるだけです。
私は7日間あなたのために、あなたの幸せのために真剣に祈るから、受け止めてください。
追伸
死にたいほどの辛い想い。お気持ちわかります。でもいいこともあったはずです。生きて欲しい!祈ります!檀家さんからです。
私も皆さんに励まされ生かされてます。あなたも生きてください。

祈願します。絶対にいいことがたくさんあります。想像もできないほど、辛い想いをされたあなたなのだから余計に幸せになって欲しい。

そんなあなただから阿弥陀さまの慈悲が届くんです。届かないはずがありません。あなたは幸せをつかむお方なんです。大丈夫。南無阿弥陀仏

(浄光寺 三浦康昭) 

元の問答:7日後に自殺します

あなたが亡くなった後でなく、生きているときに念仏を

あなたが亡くなった後で私達が念仏を唱えることなんかより、あなた自身が生きている時に自ら念仏を唱えることの方がよほど大きな意味や価値があります。なぜなら阿弥陀仏は念仏を唱える人を救うからです。
念仏を唱える人をその人の命が終わる時に極楽浄土に連れて行くのです。
お近くの浄土宗か浄土真宗のお寺で時間の許す限り、阿弥陀仏に聞こえるようにしっかり声を出して、ただひたすらに念仏を唱えてください。
あなたに阿弥陀仏の加護があることを祈ります。
南無阿弥陀仏

この世は無常。何の希望もない。

しかし、それすらも変わる可能性があるのです。
なお、この世は無常です。全てのことは常、つまり一定ではありません。

全てのことは移り変わるものなのです。お釈迦様の説いた真理です。時計の針が常に動くように。
あなたに子供時代があり、いまの姿があり、いつかは骨になるように。
あなたの信じた人が心変わりをすることもまた無常ゆえなのです。
しかし、無常だからこそ変わることもある。
今のあなたには何も希望が無い。しかし、それすらも、変わる可能性があるということです。今のあなたも、今後変わる可能性があるということです。
これまでの自分は死んだと思って、明日からの自分は新しい自分と思って、違う生き方をしてみませんか。

誰もが希望があるから生きているのではありませんよ。
私達は周りの様々な支え、食事で頂く多くの命によって生かされているのです。この生かされている命を、支えてくれている周りの人のために、頂いた多くの命のために、使うことを考えてみませんか。

(圓常寺 三宅 聖章)

元の問答:7日後に自殺します

あなたの意志とは無関係に、命はうごいている

まず、息を止めて、何分持つか、123…息苦しいでしょう。

誰が息をしてるんでしょうか?アナタ?
だったら、自分の意思で道具も何も使わず即座に息や心臓も止めてみてください。あなたの意思とは無関係に、息を吸ったり吐いたりしてるのは、本当にあなたですか?
あなたなら何故自分の意思で、息一つも止められないのですか。
つまり、こんなクズ、と言っているのはあなたの頭のハタラキで、あなたの本当の主人公は命だということ。
「こんなクズ」とまで自分を自ら虐げるような可哀想な心境に陥っているのは、あなたの本当の主人公であるオイノチ様に逆らって本心が嫌がることばかり無理してやってきたからです。自分の中に本当に聖なるもの、命を見出してみてください。

命は自分の意思やエゴとは無関係な在り方だからです。
自殺がイケないということを仏教は言ってるんじゃない。
自分の意思とは無関係に動いてくれている、せっかく授かったその聖なる命。
自分の意思とは無関係に動いているからこそ聖としか言いようのないその尊い命を自分の身勝手で勝手に左右しようとしてはいけない、そのいのちに対するバチアタリな我見とい自分中心なものの考え方こそイケないと言ってるだけです。
だから、あなたが自分の命を断つようなことや、クズなどと自分を卑下すれば命も名も泣く。
本当に自分を大事にすることです。本当に自分を大事にするという事は、考え方や行い方、しゃべる事、このような場所で書き込む言葉もやさしくするべきです。
自分が生み出す行いも、言葉も大事に丁寧にしてみてください。
丁寧とは、自分が「イタくない」ソフトなレベルをいいます。
世間や人が冷たいなら、自分だけは、自分に優しくしてもいいんじゃないでしょうか。

(安穏寺 (天岑寺) 丹下覚元) 

元の問答:自殺してはいけない理由

許すも許さないもない

自分を許せない、その価値観は自分が創ってるもの。

今のあなたは目の前の自分自身の姿を嘆いているだけ。自分が悪いと思うところだけが目について、自分の素晴らしさをすべて見失ってる。

全てに優れてる人などいない、また全てが劣っている人もいない。そして優れているも劣っているも他人との比較で何の意味も無い、仏さまの目から見たらその違いはほとんど意味は無い。

前にハスノハのある方が言っていた。ウサギとカメの競争でなぜカメは勝ったのかと、それはカメはウサギを気にせずただ自分自身を見詰めて自分のペースで歩んだからだと。

自分の生き方は他人には代わってもらえない。他人の意見に振り回わされても他人があなたの人生を代わってはくれない。だから自分の生き方に自分が許すも許さないもない。

間違ったと思ったならそこで軌道修正すればいい、間違いかわからなければ立ち止まって自分なりに答えが出るまで考えればいい。

自分が自分を許すも許さないもない。阿弥陀如来様からすれば人生の正解も間違いもない。どちらも同じようなものだ。

そして間違えた人も必ず救ってくださるという。自分自身の人生を勘違いで許せないと思い込み、自死などして欲しくない。死んだらハスノハのお坊さんみんなが悲しむ。

1年後勘違いで死なないでよかったと思える日が来るのだから。一緒に生きていこう。

(光永寺 憲章)

元の問答:自殺

生きることは死ぬこと

死ぬという道しかない。それは、わたしにとっても同じことです。
生きることは死ぬことですから。ただ、それがお互いいつになるかはわかりません。
あなたが死にたい死にたいと願いながら生きている、
その最中、心臓のやまいでぽっくり死ぬこともあります。
それを止めることはだれにも出来ません。おまかせするしかないのです。
「わたし」という「我がまま」な存在を捨て、すべてを自然にまかせるしかないのです。
自殺をする前に、まずはこころの中にいる「わがままなわたし」を殺してください。身体を傷つけるのはそれからです。もし、ナイフを手にあてたとして、血が出ますが、なぜ血がでるのでしょうか?
身体を護るために、血は出ます。
もし首にロープをまわしたとして、大量の体液があらゆるところから流れでますが、それはなぜでしょうか?
身体を護るため、すこしでも身体を軽くして生きながらえるためにそれは出るのです。
身体は、「まもるため」に存在しています。
なにを?こころをです。こころも、本来であれば身体をまもるために機能するものです。
しかし身体もこころも「病い」にかかります。病めば、正常に機能することはありません。
いま、本来であれば「生きたい」はずのこころが「死にたい」となっているのは、「病い」にあるからです。
今日という日は「わがままなわたし」を殺す日とする。
御自身では気づかないかもしれませんが、あなたの文字ひとつひとつから「生きるいのち」を感じるのです。
しかし、それとは逆の思いが生まれてしまっています。「病い」の状態です。
病いとなったら、我々もそうですが「病院」に行きます。
まずは、今日という日は「わがままなわたし」を殺す日とし、明日、病院をたずね心療を受けて頂きたいと存じます。身体を傷つけるのはそれからです。
それから、おこさまの将来を願っても、自死した親を抱えた子の苦しみに思いをはせることはなさそうですので申し上げますが、生きていれば悲しみにあるお子さんを抱きしめることが出来ても、死ねば「見守る」だけしか出来ません。
つらく苦しいのは、あなたではなくお子様です。だから反抗するんです。それは「正しいこころ」です。あなたに安らぎあれ。幸いあれ。

(善應寺   星 大晃)

元の問答:今日の夜死にます。

出会いとは、『出なきゃ会わない。』『出なきゃ会えない。』

贈る言葉はズバリ「出なきゃ会わない。」「出なきゃ会えない。」です。
一年間、結婚相談所に登録し、いろんな人にお会いしたということですが、良い縁は結ばれなかったとのこと、残念ではありますが、がっかりされないことをオススメします。

その出会いを求める姿勢はとても大切であると同時に素晴らしいと思います。あまり「こじらせる」とがっかりするかもしれませんが、暫く、肩の力を抜いて、モチベーションが上がらないのであれば、休むことも必要だと思いますが、後ろ向きにならず、前向きに休養してみてはいかがでしょうか。
「出会い」と一言で言っても良い出会いや、嫌な出会い、健全な出会いや、不適切な出会いと様々です。必ずしも全てが「善縁」とは限らないのが世のならいです。
もうすぐ春です。新しい年度を迎えます。季節とともに、質問者様の気持ちも切り替えて、新しい出会いを期待してみてはいかがでしょうか。
温かくなってきたら思いっきり、オシャレして、お出かけしましょう。
自分から外に出なければ、「出会い。」はありません。
今は、ちょっと休憩して、ココロのエネルギーを満タンにしたら、新しい出会いの旅に出かけましょう!あなたにも春がやってくることを心よりお祈りいたします。気の合う友達や未来の結婚相手、早く巡り会えるといいですね。

「出なきゃ会わない。」「出なきゃ会えない。」合掌。

(宝蔵寺 野村圭秀)

元の問答:うまくいかない人生を終わらせたいです

文・hasunoha編集部
この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

煩悩スッキリコラム

「死にたい・死にたいほどつらい」問答一覧

「死にたい」が口癖の受験生。

小学生の時のいじめ(暴言、金銭詐取、閉じ込め)が原因で、人生の半分以上「死にたい」と思いながら生きてきました。いじめが終わっても、この気持ちは消えません。むしろ年々「頑張らなきゃいけないこと」が増えて、生きるのが本当につらいです。 「どうせすぐ死ぬから」が口癖。学校に行くだけ、人と話すだけで死にたくなってしまいます。周りは「もっと頑張れ」と言うけど、どうやっても気持ちがついてこない。頑張り方が全く分かりません。 去年の春から、学校のある日だけ昼ごはんが食べられません。人前で突然話せなくなることもあります。病院に行くべきなのは分かってるけど、面倒だし、変な心配されるのが嫌で誰にも言えません。 周囲の大人(先生、親)は、私の「勉強すると死にたいほど追い詰められる」状況に全く気づいてくれません。 模試の点数が悪いと「もっとやれ」「お前だけじゃない」の一点張り。進路指導の先生には「平日5時間、休日10時間やれ」「環境のせいにせず工夫しろ」と精神論を押し付けられています。 先日、先生に怒鳴られ泣いていたら「なんで泣いてるんだ。こっちのほうが泣きたいに決まってる」と言われました。 過干渉な母と暮らしていて、自分の時間がなくストレスが溜まっています。 勉強しなきゃいけないのに集中できず、成績は下がる一方。このままじゃ周りが望むような大学も無理。親の期待も重い。模試が増えて自分の時間が削られるのが本当に苦痛です。模試は理系科目が壊滅的で、国公立・私立ともに諦めムードです。 添削課題をため込んでしまった自分にもイライラするし、文化祭でミスして友達に「邪魔だ」と言われたことも引きずっています。「こんな自分はいないほうがいい」と本気で思います。 これ以上頑張れるわけがありません。人に迷惑をかけたくないから実行しないだけで、自分の存在をなかったことにしたい。 勉強しようと思ってやっているのですが集中できないし夜更かししているわけでもないのに疲れがずっと取れません。1年くらい何もしないでゆっくり休みたいなと思いますがそんなこと言っている状況でもなく小学生の時から休んだら学校にいけなくなるかもしれないなと思っていたのでよほどのことがない限り毎日無理やり学校に行っています。 本当に生きているのが疲れてしまいました。

有り難し有り難し 40
回答数回答 4

消えゆく山村と何もできない自分が虚しい

初めまして、少々長い文章になりますことご容赦ください。 私は大学を出た後、都市部でホワイトカラーをしております。 私自身は平地の田舎に生まれたのですが両親が山奥の廃村の出身で、私も幼い頃から連れられて度々そこにまだ残っている家や集落の手入れに行っていたのですが 私が過ごしたわけでもないその家を見るにつけ、遥か昔から人間がこの地で生きてきた証、紡いできた物語が消えていくことに虚しさを感じていました。 諸行無常の世の中でそれ自体は詮無きことだとは思っておりますが、この集落の姿を守り続け、かつ日本全国にある消えゆく土地と人々の記憶や記録を一つでも多く残し伝えるために何か行動を起こしたいです。 ただ私という人間はその地の人々からすれば結局は「外部」であり訪問すること自体が迷惑なのではないか、またそもそも都市に住んでおきながら山村を憂うということ自体がその土地をダシにして懐古の感情を「消費」しているだけなのではないか、そのような思いにかられ絶望しています。 (そのような場所をセンセーショナルに紹介して金銭を得ている動画投稿者の方々にも上記のような理由で思うところはありますが、それは主題から外れるうえ私が口出しできるものではないと思います) また私は軽度ではあるものの身体に障害を抱えているため、移住して農林業に従事して…と決断する勇気が湧いてきません。独り身なので巻き込む人はいないのですが。 このような理想だけ語って何もできていない自分が腹立たしく、またこうしている間にも山村が現在進行形で消えていっていることに無力感を覚えています。 私のこの感情に折り合いをつける方法、こんな私に何かできることはないか、何でも構いません、何かお言葉を頂きたいです。

有り難し有り難し 42
回答数回答 5

生きていける気がしません

不登校の中学生です。 ふと自分を客観視した時に、果たして自分はこれからの未来で生きていけるような人間なのかと不安になります。そして、いろんな可能性を、いろんな道を考えて、最終的にはいつも「やっぱり生きるの向いてないな」という結論に落ち着いてしまうのです。 私にはほんとうになにもありません。成績もそこまで良くありません。人と関われるような精神力もコミュニケーション能力もなくて、かといって地道な作業できるような忍耐力もなければ、家からまともに動いていないので体力もありません。そして何より、自分が感じている苦しさを盾にして怠けた生活を正当化しようとしてしまいます。 今の私は子供だから、「守られるべき立場」だから、まだ環境の優しさに甘えていられる。親の脛を齧っていられる。でも、そろそろ目の前のことだけじゃなく将来も考えなければいけない時期です。高校の案内も来るようになって、ぼんやりでも将来を見据えなくてはいけない。そんな時期なのに、私はいつまでも同じ場所で立ちすくんで、同級生たちの苦しみながらもハードルを超えていく背中を傍観することしかできないのが、本当に情けなくて嫌になります。 特技があるわけでもない。努力も碌にできない。感じている痛みを免罪符にする。果たしてこんな人間に、ストレス社会とも呼ばれるような現代を生き抜く術はあるのでしょうか。 「まだ中学生なんだから人生を諦めるには早い」と先生方に励ましていただけることもあります。実際、少し前まではそれを信じていました。でも事実として、私という人間は生きるのに向いていないのです。そのことに気づいてから、大人になっても自分が生きている未来が想像できなくなりました。 死ねるような度胸がない私はきっとこれからも、消えてしまいたいと嘆きながらダラダラと生きていくのだと思います。迷惑ばかりかけたこの身で、烏滸がましくも生きることに執着するのなら、せめてほんの少しでも役に立てる人間になりたいのに。もう私が生まれてきた意味がわかりません。親にも、先生にも、親戚にも、同級生にも、友人にも、ただただ申し訳ない気持ちでいっぱいです。

有り難し有り難し 33
回答数回答 4