死とは。死ぬのが怖い。仏教僧侶が答える死との向き合い方
現在大病を患っており、医者から余命幾ばくも無いといわれています。
病をきっかけに身近になりつつある『死』について考えるようになりました。
しかし、あまりにも抽象的な存在である『死』という存在に疑問を持っています。人伝えに聞く大切な命がひとつ消えてしまうことであったり、道徳で学んだ『死』という存在が間接的すぎてあまり実感を持てません。
お坊さんたちの考える、『死』とはどういった存在を意味するのでしょうか?
死にたくない、抽象的ゆえに恐怖に思う『死』という人生の行事に、私はどう向き合うべきでしょうか?
人は死を体験できない
誰でも最初は死は怖いもんです。
怖いことの中身は、失う事、壊れる事、傷つくこと、闇、知ることが出来ない事への恐怖です。死の恐怖は「死をよく知らん」から生まれます。
アナタは昨日、眠りに就いたでしょう。その時、自分が寝た事を知ることはできなかったでしょう?今まで一度たりともそれができなかったはずです。
死も同じです。死ぬぞ死ぬぞ、と思っても実際はこの体はありがたいことに自分の意思とは無関係に生きていてくださる。
死ぬ直前まで死ぬことを考えて恐れていたって、生きている間は絶対に生きているんだから、生きている間に死の事をあれこれ考えて自分をネガティブな闇の谷に突き落とすよりは、ああ、なるほど、死とはこの命が完全に止まり、感覚も痛みも思い出もすべてを良い意味で無に帰してくれるのだな、だけども自分が死んでも、この世界だけはあり続けていって、自分がこの世界に存在して何かしてきた分、死後も影響力として生き続けるのだ、誰かの心の中で私が死んだ状態でのコミュニケーションがなされるのだ、と考えれば、なすべき事がワンサカ出てくると思います。死は受け入れると、受け入れざるとに関わらず「絶対」です。
暖かく死んでいきたい
死は、死を終局として捉えず、ただそれとして受け止めるべきものです。
死をことさらに、終局、終焉、デッド、死、不幸、悪いもの、忌避すべきものとして捉えておられませんか?
死に罪はない。死をあなたが思う時、それに付随させてアレコレ悪しざまに思う自分の暗い思いにくらまされているのではないでしょうか?
私は禅坊主ですので、生死を明らかにし、それに惑わないようになるのが本道です。禅僧仙厓は「死にとうない」と言ったと言われていますが、達観して、笑って言ってるのですよ。(笑)「((^<^)ああ、もう終わりかい、生きられるもんなら生きたいもんじゃが、寿命は避けられぬもの仕方ない)ああ、死にとうないわい((笑))」というテンションです。
生死を明らかにすれば、大安心です。
(わかりやすく申し上げれば ポジティブ に)ああ、死にとうないわい(笑)と言って死ぬことができるんです。別に、ああ、やっとこさ楽になれる(笑)と言って死んでいけるのも人生を明らめた人の堂々とした受け入れ態度であると思います。
与えられた寿命に逆らうことなく最期まで生きて、暖かく死んでいきたいと思っています。
不老不死の方法
私の尊敬する師が、ある時私に「浦上くん、不老不死の方法がひとつあるんだけど、知ってるかい?」と尋ねました。
何を言い出すのかと動揺しながら「いいえ」と言うと、師僧は「それはね、生まれないことだよ」と言いました。
そしてさらに「私も君も、すでに生まれている。だから手遅れなんだ。仏教は不老不死の道ではなく、『生死出ずべき道(しょうじ いずべき みち)』なんだよ」と仰いました。
生死出ずべき道。それは、平気で生きて、平気で死んでいく道を求めることだと私は理解しています。でも、私を含め、ほとんどの人がそれを手に入れられないまま、恐れおののき、苦しみながら死を迎えるのだと思います。
死を受け入れられなくても、いいじゃないですか。
江戸時代の禅僧、仙厓和尚は今際の際に弟子たちに「辞世の句を」と請われ、「死にとうない」と応えたそうです。
あまりに格好悪い応えに弟子がもう一度問うと「ほんまに、ほんまに」と応えたとか(一休宗純という説もあります)。
いつか死を前にして、やれることは全てやったぞ
あなただけでなく、みんな怖いのです。私もそうです。
お釈迦様はこの世は諸行無常と説きました。
全ては移りゆくもの、生があるから死があるように、死があるからこそ生もあるのです。
大切な事は、死を恐れない事では無く、いつかは訪れる死を覚悟して、今の生に集中する事です。
生きる意味は人それぞれですが、あなたの心が求めるものを手に入れる為である事は間違いないでしょう。
あなたが欲しいものを手に入れる為、欲しいものが無いなら、先ずはそれを見つけることからです。
それが最終的に手に入るかどうかは分かりません。
しかし、そのために懸命に今を生きること、そこに、生きる意味が生まれ、いつか死を前にしても、やれる事は全てやったぞ、と後悔なく受け止められる時が来るのではないかと思います。
心に信じることによって存在するところ
なお、浄土や天国の存在は科学的に証明出来るものではありません。心に信じることによって存在する所です。
私はお釈迦様やその弟子達、悟ったお坊さん達のように死を自然の摂理としてすんなり受け入れられないので、阿弥陀仏を信じ、極楽浄土を信じ、日々念仏を唱えています。
極楽浄土は私が欲しいもののひとつだから、そこに行く為に懸命に日々努めているのです。
あなたが欲しいものは何ですか?
元の問答:死が怖いです。
生きるということ、死ぬということ
明日かもしれない、今日かもしれない
寝たら目が覚めないかもしれない
来年かもしれない、10年、20年後?
分かりません、分かりません
だから今を思い切り生きるんです、明日があるし平気平気、と思うのではないんです
私も同じように不安で怖くてたまらなくなったことがありました
考え始めると怖くて怖くてしょうがないものです
生きられるなら脳を移植してただ生かされているだけでもいい
コールドスリープで科学がとんでもなく発達するまで生かされ続けたい、思ってました
例え骨だけになろうとも何も食べられなくても生きていたい、と
でもそれって本当に生きてると言えるのかな、それってどれだけ苦しいんだろう、とあるとき考えました
毎朝朝起きて布団から出るときにしっかりと声に出してみましょう
「今日も目が覚めた、ありがとう」
ありがとう、は神様でも仏様でも自分にでも全部に対してでも構いません
今日無事に起きれた幸せ、生かされている幸せ
それを毎朝噛み締めてください
喜んでください
声に出して喜んでもいいです、今日も生きてる、起きれた、生きてる、と
元の問答:死ぬのが怖い
私の死は、私がどう生きるかに繋がっている
私たちは、物は壊れる性質を持っていることを知っているので、物を大切に扱おうとします。それと同じように、私たちは死すべき存在であることを知っているので、この人生を充実したものにしたいと思うのです。
では、「私たちはどうせ死んでしまうのだから、どう生きてもいいのではないか。」とか、「どうせ死ぬのになぜ生きるのか。」と考える人へはどう答えればよいのでしょうか。
人類は、死を認識できたからこそ生きるという概念を生み出した
平均寿命という言葉がありますが、これは決して私たちの死が数十年後先に待ち構えていることを意味しているのではありません。
死はいつ私たちに訪れるかわからないのです。「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、…されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕には白骨となれる身なり(蓮如上人『白骨の御文章』)」なのです。
つまり、「“生きること[生]”は“死ぬこと[死]”と共にある」のであり、これは逆から言えば、「“死ぬこと[死]”は“生きること[生]”と共にある」のです。“生きること[生]”の帰着点に“死ぬこと[死]”があるのではないです。
ですから、「私の死は、私がどう生きるかに繋がっている」のです。もしも私たちが不死なる存在であったならば、「生きる」という言葉・概念は存在しなかったでしょう。人類は、「私たちは常に死すべき存在である」ということを認識できたからこそ、「生きる」という言葉・概念を生み出したのであり、「生きる」ことの大切さを宗教・哲学を通して説いてきたのだと思います。
元の問答:どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?