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亡くなった人や神様に助けを求める事

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有り難し有り難し 12

こんばんは。初めて投稿させて頂きます。
私は数年前から突如発症したvisualsnowという病気、またそれに伴って併発する様々な症状に日々苦しめられています。
この病気は治療法もなく、また日本では医師の間でもほとんど認知されておらず助けを求め受診した先々の病院で「どこも悪くない」「精神的なもの。」「君程医者を困らせる異常な子はいないよ。」と嘆かれドクターにすらろくに相手にされない日々を送っております。
目に見えてわかる症状ではないため世間の人も家族すら理解してはくれません。

目も耳も不調なためストレスや恐怖を発散することも出来ず、泣き続ける毎日です。
最近になり何か救いの手を差し伸べてもらえないかと近所の神社へ行き、唯一話を聞いて頂ける神様にこの病気を治して欲しいと願いをするようになりました。
また、亡くなった祖父母に「こんな孫でごめんね」や「辛いよ…助けて」と助けを求めるようにも…
ただ、インターネット上では神に個人的な事(特に病気平癒)を願ってはいけない、亡くなった人に助けを求めることはよくない、そもそも助けてはくれない。などマイナスな情報が多くあり、私はいけないことをしているのでは…と不安になりました。
神様や私をとても可愛がってくれた祖父母に助けを求めることはいけないことなのでしょうか?
宗教の違いもあるかもしれませんがご回答頂ければ幸いです…


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私の願いと大きな願い(神仏の願い)

ご相談拝読しました。そのようなご病気があるのですね。病気の症状に加え、理解されないことによっても二重の苦しみを受けておられることと思います。お見舞い申し上げます。

さて、神仏や亡き祖父母に助けを求めて祈ったり願ったりする事は悪いことではありません。誰にも語れないことを語ることのできる場があるというだけである種の救いになると思います。どうぞ遠慮せず語りかけ、祈り、願ってください。

しかし、おっしゃる通り神仏や亡き祖父母が「病気を治す」という方法で救ってくれることはないでしょう。全ての宗教においてそうは言えないかもしれませんが、少なくとも仏教ではそのようには考えません。

もしも病気が治ったとしても、もう二度と病気にならない体になるわけではありません。

仏教が目指す救いというのはそういう一時的なものでなく、根本的な真の救いです。すなわち、私の思い通りになるということでなく、私の思いが破れ、どんな困難な状況をも現実として引き受けて、心が沈み込まずに歩んでいけるようになるというものです。(心が強固になるというのでなく、どんなに揺れる心でもまた帰することができる拠り所ができるということ)

物事には原因があります。病気にも原因があることでしょう。先天的なもの、後天的なもの、どうにかなる可能性のあるもの、ないもの…。

様々な縁(条件・環境)によって病気もそうですし、あらゆる現象は生じます。これを縁によって起こるので縁起といいます。私たちはあらゆる縁でつながった縁起するいのちをいきているのです。

その大きないのちの事実に目覚め、どんなご縁をも今の私を形づくるご縁であるとして受け止めて欲しいという願いが神仏や亡き祖父母からもあなたにかけられているのだと思います。

入り口はご自身の思いでかまわないのです。「こうしたい」「ああなりたい」「あれを避けたい」…そういうところからしか人間は始められません。

でもそこにとどまるだけでなく、突き抜けて、真の救いを求める大きな願いもまた心の底にうずいているはずなのです。

それが神仏や亡き人の願いから呼びかけられ、促され、私たちに大きな力をくれるのではないでしょうか。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

お返事ありがとうございました。
病気になり色々思うことはありますが一日一日を自分なりに精一杯生きようと思います。
泣いてばかりで生き甲斐も何もないのが今の現状ですがいつか希望の光が差し込んでくれる日を信じ今を生きようと思います…
ありがとうございました。

「神社・神様」問答一覧

神を信じられなくなって辛い。

カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 37
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天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ