相手を訴えてもいいでしょうか
はじめまして。
少し前に人生で一番辛い経験をし、心のありようとして藁にもすがる思いで仏教の教えに触れる機会を得ました。
まだまだ理解にはほど遠く未熟ですが、辛くなってきたとき仏さまの教えを思い出して救われることが多い日々です。
仏さまの教えに近い生き方をしたいと思いますが、果たして私がしようとしていることが間違っているのか教えて頂きたく、質問させてもらいました。
具体的には、世界で一番信じ愛してきた夫の長年の裏切りでした。
分かってからは夫が別人のように感じられ、酷い死を願うほど憎く感じました。しかし憎しみや怒りが己の心を苦しめていることに気がつき
「人生辛くて当たり前なんだ」
「辛いのは自分の心がそうさせているんだ」
「人の気持ちは変わるんだ」
そう思って今少しずつ現実を受け入れつつあります。
夫はそれでも、これまで私のためにたくさんの優しさと誠実さを注いでくれていたこともあり、感謝もしています。
今となっては離婚したいと考えていますが、そうなるにしてもできるだけのことをすると言ってくれていて、できるだけ話し合いで決めていきたいと思っています。
ただ、相手の女性だけはどうしてもこのままにしておけないという思いがあります。
気が強い人で、私に対する理不尽な罵詈雑言、やり口など、周り事情を知る人は皆、絶対許しては行けないと言います。自分にも子供や夫がいながら、うちの家庭を壊し子供から父を、私から夫をを奪えれば満足だという感じが伝わります。私にばれたと知ってもしらんふりをしています。このままこちらの家庭だけ壊されるのは理不尽であると感じます。
何年にもわたる不定関係の証拠はある程度押さえており、訴えることはできますが、訴えたら夫は結局私への怒りを持つでしょう。そうだとしても訴えたい思いはあります。
(夫と彼女は恐らく仕事では繋がっており、今時点でまだ男女の仲なのかはわかりませんが訴えたら夫にはバレます)
ただ、仏さまならどう仰るのだろうか。愛別離苦、怨憎会苦を受け入れて憎しみを持たず訴えることはやめなさいと仰るのかな。仏教の精神世界では、そうすべきではないのかな、とそれが気になります。
相手方から見れば因果応報なのでしょうが、仏教の世界観でいえば私のしようとしていることはやはり間違っているのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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出来るところで教えを鏡に
こんにちは、初めまして。
「夫の長年の裏切り」によって、肩を落としておいででしょう。
お辛い心中をお察し致します。
さて、「愛別離苦、怨憎会苦を受け入れて憎しみを持たず訴えることはやめ」るべきかどうか、というお尋ねです。あなたは、「仏さまならどう仰るのだろうか」ともお考えのようですね。
ではお尋ねしますが、仮にあなたが仏様から「憎しみを持たず訴えることはやめなさい」と説かれてその通り出来ますか。むしろ、出来そうにないからご相談されているのではないでしょうか。
出家して執着を捨てるということならいざしらず、世俗にあってはその教えを鏡にしながら可能な範囲で折り合いをつけていくことしか現実には出来ないのです。
訴えとは、不貞行為によって婚姻破綻という損害を受けた、だからその損害についての責任を取って下さい、という至って合法的で合理的なことを求めているに過ぎません。
そもそも仏教では、人間は自己中心にものを考え、思い通りにしようとすることで自分の利害と他人の利害とぶつかり合って苦しむと考えます。あなたは、今回の件で自分勝手な思いで自発的に誰かを傷つけようとしたのでしょうか。利得を得ようとしましたか。
むしろ、そもそもご主人とその相手が、積極的に自己都合・利得を押し通そうとした結果が、今日のあなたに影響したのでしょう。それは、露見した場合、大変なことになることが分かっていての行動です。「訴えたら夫は結局私への怒りを持つでしょう」とご主人のことを気にされているようですが、ご主人も、不倫相手も文句をつける筋合いにはありません。
今回のことで、自分の受けた損害について一定の折り合いをつけたその上は、「怨憎会苦」の教えを大切にされていくとよいでしょう。
ご主人或いはその相手へと抱く、ふつふつした恨みがその後も続くかもしませんが、段々と手放していく。恨んでいく先には幸せはない。新たな人生をリスタートしよう。人生転換の糧にしていく、そういう受け止めはいかがでしょう。
質問者からのお礼
釋先生
先生の呼び名は相応しくないように思いますが、どうおよびすればよいか調べても分からず失礼がありましたら申し訳ありません。
お返事いただきありがとうございました。冒頭の一文から優しいお言葉に涙が溢れて止まりませんでした。
おっしゃる通り、私はもし仏様に「そのような心は持ってはいけない」と諭されたとしても、やはりすんなりと飲み込むことはできず相手の方を罰したい、訴えたいという思いがありました。
「訴えとは、不貞行為によって婚姻破綻という損害を受けた、だからその損害についての責任を取って下さい、という至って合法的で合理的なことを求めているに過ぎません」というお言葉に、心底救われた思いがします。
ただ「今回の件で自分勝手な思いで自発的に誰かを傷つけようと」したことはありませんが、「利得を得よう」としているかと言われると、損害に対しての値段が定まっていない分、利益のためというよりも、「取れるだけ取って罰せるだけ罰したい」「相手の家族にも知られて知られて苦しむべきだ」「そうなってしか反省もないだろう、私の痛みも分からないだろう」という思いがあります。この心が決して良いものではないとわかりつつも、どうしても罰さないままでは手放せません。手放せないことがまた苦しいです。
ですが、おしゃる通りきちんと訴えを終えたあとは、必ずこの憎しみの心も、夫への未練も執着も手放して、悲しみと苦しみ、孤独感を胸に抱きながらも受け入れて、大人になって生きていきたいと思います。
今回のことは本当に、私が己を振り返り自立して生きるために絶対に通らなければいけなかった学びなのだと、心から思っています。
そんな節目に、いただいたお言葉は一言一言私の中に沁みとおりました。
お忙しい中、たくさんのお悩みの一つに目をとめ、気持ちを汲んで丁寧に応えてくださったのことに心から感謝いたします。いつか報恩寺にお参りに行きたいという目標ができました。ありがとうございました。