疲れる意見を受け流す方法を教えてください
不妊治療が来年度から保険適用されますよね。
私は不妊治療をしているわけでも経験したわけでもありませんが、良いことだと思います。
ただ保険適用に関しては様々な理由で賛成でない方がいるのも知っていますし、一部理解できる意見もあります。
しかし、賛成でない方の意見の一部に、「私はキャリアを諦めたのにキャリアも子どもも両方選ぶなんて自己中だ、ズルい、どちらかを選べ」といいたげな女性や、
「若いときに遊んでいたのだから自己責任だ」といいたげな女性をみます。
前者は嫉妬しているだけですし、
後者は自分は遊びたい時期を我慢したんだ、他人も苦労するべきだという人にしかみえません。
(私もキャリアも遊ぶ時間もありませんでした)
人だから色々な意見があるのはわかりますが、
このように人を嫉んだり、
人の幸せを願えなかったり、
私も苦労したんだから他人も苦労すればいいと思う人を見ると、辟易とします。
どうすれば、ふーん。と思えるようになるでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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否定を否定するから「疲れる」
こんにちは。
「疲れる意見を受け流す方法」とのことです。
これは、「不妊治療」に限らずどんな問題にも賛否は両論あります。
この両論は、それぞれなりの一理がある、背景があります。極端な、差別とか排外するものではない限り、それは一定の重みが均等にあるのだと思います。
あなたが、他者の意見を「疲れる」と受け止めるのは何故でしょうか。
つまり、「ふーん」ではなく「疲れる」のは何故か。
それは、あなたが相手の否定的意見を否定しようとしているからでしょう。
そういう力が入っているから「疲れる」のだと思います。
あなたたは、「賛成でない方の意見の一部に」対して、「嫉妬しているだけ」、「他人も苦労するべきだという人にしかみえません」と書いています。それは、あなたの理屈から見れば、「疲れる」ような非見識なのかもしれません。
しかし、その「疲れる」と判断した時点で、すでに相手の見解を「だけ」という限定、「人にしかみえません」という固定化した視点で見ています。相手の動機や、背景や、理屈の詳細を大分カットしてしまっているのではないでしょうか。
相手にとっても、自分にとっても議論は簡単に尽くせるものではない。
まず、その謙虚さを持つことです。
また、考えるべき要素、統計的事実、社会的背景、立場による見方の違い・・・数多くの論点の吟味と議論の積み重ねの上に、初めて人と人とは理解しあっていけます。否定を否定するのではなく、そういう意見もあるんだ「ふーん」とまずは聞く。そして、受け止めたり、理解したり、歩み寄ったり、提案をしていく。そこには、さらに「ふーん」から一歩進めた議論が深まっていくのだと思います。
(編集部より。投稿の一部を削除しました)
質問者からのお礼
(編集部より。規約により投稿を削除しました)